千田嘉平
[Wikipedia|▼Menu]
千田嘉平

千田 嘉平(せんだ かへい、1871年10月12日(明治4年8月28日[1][2])- 1943年昭和18年)2月18日[1])は、明治末から昭和前期の陸軍軍人政治家華族。陸軍少将貴族院男爵議員
経歴

鹿児島県出身。薩摩藩士千田貞暁の二男として生まれる[1][3]。父・貞暁の死去に伴い、1908年(明治41年)6月17日、家督を相続し男爵を襲爵した[4]

1891年(明治24年)東京府尋常中学校卒業[5]1894年(明治27年)7月27日、陸軍士官学校(5期)を卒業し、同年9月18日、歩兵少尉に任官[6]。以後、近衛歩兵第2旅団副官、教育総監部副官、第4軍司令部副官、野津道貫元帥副官、近衛師団副官などを歴任[7]1916年(大正5年)7月14日、歩兵大佐に昇進し歩兵第16連隊長に就任[6]近衛歩兵第4連隊長を経て、1920年(大正9年)8月10日、陸軍少将に進み歩兵第19旅団長となる[6]1924年(大正13年)2月4日に待命となり、同年2月26日、予備役に編入された[6]

1925年(大正14年)7月10日、貴族院男爵議員に選出され[8]公正会に属し死去するまで在任[7][9]。その他、日本競馬会設立委員、軍人援護対策審議会委員などを務めた[7]
栄典

1894年(明治27年)10月26日 - 正八位[10]

1908年(明治41年)6月17日 - 男爵襲爵[4]

1920年(大正9年)9月10日 - 正四位[11]

1924年(大正13年)3月25日 - 従三位[12]

親族

姉 玉利信子(のぶこ、海軍中将・玉利親賢
の妻)[1][3]

長男の千田貞清(1900年生)は東洋拓殖、満州生命保険に勤務し、父親没時に襲爵。幼少時は、迪宮(昭和天皇)のお相手を務めた[13]。社団法人日本通商振興協会の理事時代には、理事の一人が詐欺を行ない、その共同責任を問われた[14][15]

脚注^ a b c d 『平成新修旧華族家系大成』上巻、791頁。
^ 『日本陸軍将官辞典』410頁では「8月6日」。
^ a b 『人事興信録 第13版 上』セ26頁。
^ a b 『官報』第7492号、明治41年6月18日。
^ 『東京府立第一中学校五十年史』巻末「如蘭会員及現在生徒名簿」(東京府立第一中学校,1929年)
^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』111、116頁。
^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』75頁。
^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、34頁。
^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、51頁。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:17 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef