千村五郎
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千村 五郎(ちむら ごろう、生没年不詳[1])は、日本英学者牧師である。名は仲清、号は健堂、小木曽山人。別名は木曽五郎。
生涯

1835年(天保6年)から1838年(天保9年)の間に[2]美濃国可児郡久々利村(現・岐阜県可児市)の旗本領主千村頼久の孫として生まれる。名古屋に出て伊藤圭介に師事し、田中芳男柳河春三らと共に蘭学英学を学んだ。1860年万延元年)、幕府の蕃書調所の英学句読教授出役に任命され、詩文・蘭学を研究した。1864年元治元年)、外国奉行手附横文字認方出役に命じられ、開成所(蕃書調所の後継)を辞する。

性格は頑固で片意地な面があった。乗馬を好んでいた。尾張本草学の研究団体「嘗百社」の同人であった[2]

明治維新後は斗南藩の洋学所で英語を教え、後に英学塾協和社を開いた。この頃の門下生に井深梶之助都築馨六らがいる。1872年(明治5年)、アメリカ合衆国シカゴに留学したが翌年に病気のため帰国。1874年(明治7年)にカラゾルス宣教師から洗礼を受ける。東京第一長老教会の長老になった。

また、後には美普教会の牧師になり、日本橋呉服町の講義所(教会)の牧師をした。1884年(明治17年)にはハイデルベルク教理問答の翻訳である『鄙語海徳山問答』を発行する。その後、再渡米するが、帰国後中風になり、東京で死去した。没年は明治20年(1887年)とするもの[3]や、1891年(明治24年)8月31日の記録に「木曽五郎」の名前が記されているものもある[2]
脚注^ 『日本キリスト教歴史大事典』では1807年生まれ・1891年3月18日死去とするが、同族である尾張藩の儒者・千村?陽(kotobank)と混同した可能性がある。
^ a b c 茂住實男, 「千村五郎-蕃書調所最初の英学教師-」『日本英語教育史研究』 4巻 1989年 p.37-57, 日本英語教育史学会,doi:10.11222/hisetjournal1986.4.0_37
^ 石附実『近代日本の海外留学史』(ミネルヴァ書房、1972年)

参考文献

『日本キリスト教歴史大事典』教文館、1988年

早川勇編『日本の英語辞書と編纂者』春風社、2006年










築地バンド
メンバー

宣教師

C・カロザースジュリア・カロザース
日本人

原胤昭戸田欽堂、鈴木舎定、田村直臣、林清吉、出口せい、千村きよ、土屋梅吉、千村五郎

歴史

東京第一長老教会(1874)・築地大学校(1874)・築地六番神学校(1874)・A六番女学校(1974)・日本独立長老教会(1876)
 日本基督教会の源流

米国長老教会オランダ改革派教会スコットランド一致長老教会横浜バンド築地バンド


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