千昌夫
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千 昌夫
出生名阿部 健太郎(あべ けんたろう)
生誕 (1947-04-08) 1947年4月8日(77歳)
出身地 日本岩手県陸前高田市
学歴水沢第一高等学校中退
ジャンル演歌
職業歌手
活動期間1965年 -
レーベルミノルフォン→徳間ジャパン
事務所第一プロダクション→(有)ジュクネン    
共同作業者遠藤実
公式サイト千 昌夫 - 徳間ジャパンコミュニケーションズ

千 昌夫(せん まさお、1947年昭和22年〉4月8日 - )は、日本演歌歌手

本名は阿部 健太郎(あべ けんたろう)。岩手県陸前高田市出身。元妻はアメリカ人歌手・外国人タレントだったジョーン・シェパード

バブル期には「アベインターナショナル」を立ち上げ、不動産業などを幅広く展開する実業家としても知られた[1]
来歴

農家の次男として生まれ、父親を小学4年の時に亡くした。

1965年(昭和40年)に作曲家遠藤実に入門し、9月5日に「君が好き」でデビュー。翌年3月24日発売の「星影のワルツ」が、1967年秋頃より大ヒットし、ミリオンセラーを記録[1]1968年(昭和43年)の『NHK紅白歌合戦』に初出場した。その後「君がすべてさ」、「アケミという名で十八で」「懐かしの人」などがヒットした。

1979年(昭和54年)、1977年4月5日発売の「北国の春」が大ヒット[2]ミリオンセラーとなり[1]第21回日本レコード大賞ロングセラー賞受賞。その他に「望郷酒場」「夕焼け雲」「味噌汁の詩」「津軽平野」などのヒット曲も生まれた。

私生活では1972年(昭和47年)にシェパードと結婚。松下電器(現・パナソニック)のテレビ「パナカラー・クイントリックス[1]いすゞ・アスカ象印マホービンのCMに夫婦で出演したが、1988年(昭和63年)に離婚した。後に18歳年下の外国人女性と再婚し、3人の子供をもうけている。次女のダニエラは2009年9月に芸能界にデビューしている[3]

1970年(昭和45年)、仙台市郊外の5万坪の山林を4,000万円で購入した[1]。その後、東北新幹線の着工決定も手伝い、その土地を含めた周辺が市街化区域に編入されたことで、地価は10倍に上昇した。このことがきっかけとなり、1972年には「アベインターナショナル」を設立し、次第に不動産業に傾倒するようになり、バブル期には歌手を休業し不動産業に専念した。

「歌う不動産王」「ホテル王」と呼ばれるほど、世界各地にマンションやビルなどを所有し、一時はホノルルの殆どのホテルが千昌夫の持ち物と揶揄されるほどで、千のものまねを持ちネタとしていたコロッケはよく「おら金もってんどー」というネタを使っていたが、1991年バブル崩壊とともに借金が膨れ上がり、2000年(平成12年)2月4日に「アベインターナショナル」は経営破綻した(東京地裁特別清算を申請、負債総額は1,034億円)。1991年3月に「おやじ先生」をリリースし、歌手活動を再開した。

「アベインターナショナル」の債務を個人保証していたことから、最盛期には3,000億円を超える借金を抱えていた。殆どは旧日本長期信用銀行(長銀)からの借り入れで、長銀の経営破綻と一時国有化による公的資金投入で借金は1,000億円程度に棒引きされたが、それでも個人で返済可能な金額を遙かに上回るものであり、個人向け民事再生法を適用し、2002年(平成14年)に「6年間で約1億5,000万円を返済すればよい」という形で一応の決着を見た。

2011年(平成23年)3月11日に起きた東日本大震災に対する、ジャッキー・チェンが発起人となった香港でのチャリティーイベントに、エリック・ツァンアンディ・ラウリッチー・レンアグネス・チャン中村雅俊AKB48前田亜美梅田彩佳松井咲子らと参加[4][5]、このイベントには義捐金2億9000万円が集まった[6]
エピソード
歌手活動

大ヒット曲「
北国の春」は発売当初の売れ行きは低調だったが(1977年度オリコン年間シングルチャート139位)、同曲を歌い続け、1978年(同年度オリコン年間シングルチャート55位)、1979年の紅白で歌った結果じりじりと売れ始め、1979年度オリコン年間シングルチャート5位の超ロングヒットとなった。同年の紅白では白組司会の山川静夫が「3年続けて同じ曲!」と紹介し笑いを誘ったが、歌手席や客席から「待ってました!」の声が上がり、雰囲気は一層盛り上がった。

「北国の春」をテレビで披露する際は、よれよれのレインコートと古びた中折れ帽、丸縁の眼鏡、長靴、手ぬぐいを着用し、くたびれたトランクを提げるという奇抜なスタイルで歌唱していた。師匠である遠藤実からは「みっともないから止めろ」と言われていたが、それにも関わらず千は、「演歌歌手は滅多にテレビに出られないから、出た以上は目立たなくちゃ」とこの格好で歌い続けた。

ユニークなフレーズを織り込むこともあり、「味噌汁の詩」冒頭では、息で唇を震わせる音(「あっぷるるー」)を入れたり、その前のシングル「ふるさとの祭り」では、冒頭に「ガガニコニンニン」という千の掛け声が織り込まれている。

高校時代修学旅行の最中に自ら嘘の電報を打ち抜け出し、遠藤実の下を訪ねたのが弟子入りのきっかけである。

バブル期

人気絶頂時に
超高級車ロールス・ロイスを所有していたが、真夏の暑い時でもクーラーは切ったまま運転していたという。

子息が通学していた横浜インターナショナルスクール、「セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ」が経営難で廃校されることになった際には、廃校反対デモに参加した。

不動産投資の失敗で膨れ上がった借金について、「利子は一日5000万円です」と本人が困った様子もなく、開き直ったようなコメントを当時のテレビ番組で語っている。

マスコミの借金報道が過熱した結果、「俺はマスコミのおもちゃじゃない。男は余計なことをしゃべらない!」と激怒し、以降しばらくマスコミとは距離を置いていた。

陸前高田市に「キャピタルホテル1000」という、千昌夫が関与したホテルが存在するが、2011年の東日本大震災により被災し、犠牲者こそ出なかったものの営業を停止した[7]。その後ホテルは同じ名称のまま、別の場所で営業を再開したが[8]、千は2000年にホテルの経営から手を引いており、再オープンには一切関与していない。

その他

トレードマークの額の
ほくろは、コロッケが頻繁に真似ていたが、2000年に開運の意味も込めてレーザー手術で除去している。その後細木数子にほくろは取らないほうがよかったと指摘されている。なおコロッケはその後もほくろありの千の真似をしている。

高校中退から1965年以前まで北海道岩見沢市にて同郷の左官業者のもとで左官職人志望として働いていた時期がある。

プロ野球東北楽天ゴールデンイーグルスファンクラブ名誉会員(会員No.7)。

インコを数羽と烏骨鶏を飼っている大の愛鳥家で、地方公演では楽屋にも連れて行き、2018年4月2日放送の徹子の部屋ではスタジオにも連れてきていた。

NHK紅白歌合戦出場歴

年度/放送回回曲目出演順対戦相手備考
1968年(昭和43年)/第19回星影のワルツ03/23ペギー葉山初出場
1969年(昭和44年)/第20回2君がすべてさ02/23いしだあゆみ
1970年(昭和45年)/第21回3心の旅路10/24小川知子
1971年(昭和46年)/第22回4わが町は緑なりき19/25渚ゆう子
1977年(昭和52年)/第28回5北国の春12/24和田アキ子6年ぶりの出場
1978年(昭和53年)/第29回6北国の春(2回目)13/24和田アキ子(2)
1979年(昭和54年)/第30回7北国の春(3回目)18/23小林幸子
1980年(昭和55年)/第31回8味噌汁の詩20/23森昌子
1981年(昭和56年)/第32回9望郷酒場05/22松田聖子
1982年(昭和57年)/第33回10北国の春(4回目)11/22島倉千代子
1983年(昭和58年)/第34回11夕焼け雲08/21牧村三枝子
1984年(昭和59年)/第35回12津軽平野03/20高田みづえ
1985年(昭和60年)/第36回13あんたテレサ・テン
1986年(昭和61年)/第37回14望郷旅鴉16/20松原のぶえ
1989年(平成元年)/第40回15北国の春(5回目)第1部に出演(対戦相手なし)3年ぶりの出場
2011年(平成23年)/第62回16北国の春(6回目)16/25平原綾香22年ぶりの出場[注釈 1]


対戦相手の歌手名の(  )内の数字はその歌手との対戦回数。

曲名の後の(○回目)は紅白で披露された回数を表す。

出演順は「(出演順)/(出場者数)」で表す。

ディスコグラフィ
シングル

1?31:
ミノルフォン、32?36:キャッツタウン、37?:徳間ジャパン

#発売日A/B面タイトル作詞作曲編曲規格品番
11965年
9月5日A面君が好き若山かほる遠藤実KA-6
B面銀座かぐや姫
21965年
12月5日A面若い恋人たち山口あかりKA-20
B面十七才の涙星遠藤実
31966年
3月24日A面星影のワルツ白鳥園枝遠藤実KA-39
B面君ひとり遠藤実
41966年
12月20日A面学生ブルース[注釈 2]KA-99
B面学生マーチ[注釈 2]幸田栄遠藤実
51967年
3月1日B面
[注釈 3]パットネ[注釈 2]早川和也KA-118
61968年
7月10日A面青い月の恋遠藤実KA-219
B面君が好き若山かほる遠藤実
71968年
12月1日A面君がすべてさ稲葉爽秋KA-234
B面銀座かぐや姫若山かほる


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