千日劇場(せんにちげきじょう)は、かつて大阪府大阪市南区(のちの中央区)にあった劇場・演芸場。通称・千劇。別称・千日ホール。1958年開場、1969年閉場。千土地興行(のちの日本ドリーム観光[1])経営。目次 千日前交差点の南西角に位置した「千日デパートビル」6階にあった劇場。千日デパートビルは直営ストアと専門店街からなる複合商業施設で、劇場は千日デパート(専門店街)が定休日の場合でも開場しており、毎週水曜日の定休日の際には、客を招くために開いている入口へ案内する立て看板をビル1階に設置した。 下座(寄席囃子)は一貫して、林家とみが務めていた[2]。 もともと千日デパートビルは大阪歌舞伎座(旧・大阪楽天地)を改装した建物で、6階フロアは戦前にはアイススケート場、戦後には進駐軍向けの特殊慰安所(キャバレー)となり、やがて劇場「歌舞伎会館」に改装された。歌舞伎会館では主に軽演劇の「曾我廼家五郎劇」が上演し、漫才を併演していた。 1958年(昭和33年)12月1日、「千日デパート」開店にともない、「千日劇場」と改称し開場。演芸と五郎劇の後身「お笑い人生劇団」を主体としたプログラム内容であったが、やがて人生劇団は不評のため、芸人も出演する軽演劇「センニチコメディ」に差し替わった。 しかしながら、千土地から分かれた松竹芸能と、演芸を復活させた吉本興業の両者が追い上げてくると挟み撃ちにあう形となる。やがて、ビルの6階という不便な立地条件が災いして客足が鈍化した。また、千土地の代表者が松尾國三に替わって以降は演芸を軽視していた節があり、1963年(昭和38年)、社名を日本ドリーム観光と改称後はよりその姿勢が鮮明となっていった。 この時期、関西テレビの大喜利番組『お笑いとんち袋』や、読売テレビ(ytv)の各番組など、在阪局と提携した舞台中継番組が放送されていた。この頃の千日劇場はゲームセンターを通らなければ入場できないフロア構造になっており、千土地の所属芸人で『お笑いとんち袋』のレギュラー出演者だった2代目笑福亭松之助は、ある落語家が「ゲームセンターを抜けるとそこは演芸場だった」と小説『雪国』にかけた洒落を言っていたのを記憶している[2]。 1966年(昭和41年)には、京唄子・鳳啓助ら中心芸人が大量離脱し、芸能プロダクション「娯楽観光」を設立して独立。さらに1967年(昭和42年)にはもうひとつの千土地系劇場「大阪劇場」閉鎖が決定打となり、専属芸人の流出が相次ぎ、千日劇場の出演芸人は二流どころが中心となる。「4時間笑って200円」とのキャッチコピーを掲げて低料金で頑張った効果もなくジリ貧状態となり、1969年(昭和44年)4月30日に閉鎖。日本ドリーム観光は演芸から撤退した。 跡地は上述のゲームセンターの拡張に利用されたあと、ボウリング場に改装すべく工事に入ったところ、1972年(昭和47年)5月にビル全体が火災に遭い、営業を休止。廃墟のまま放置されるに至ったすえ、1981年(昭和56年)に解体された。跡地は商業ビル「エスカールなんば」となり、2001年(平成13年)以降はビックカメラ大阪なんば店が入居している。 日本ドリーム観光(千土地興行・千日興行)専属の芸人が主に出演していたが、他の事務所に所属していた芸人も劇場と直接専属契約して出演していた。 吉本興業や松竹芸能からも芸人が配給されていた(前者はなんば花月が出来るまで)[3]。
1 概要
2 沿革
3 主な出演者
3.1 漫才
3.2 落語
3.3 浪曲
3.4 音頭
3.5 音楽ショウ
3.6 漫談
3.7 奇術
3.8 曲芸
3.9 演劇
4 脚注
概要
沿革
主な出演者
漫才
芦乃家雁玉・林田十郎
鳳啓助・京唄子
タイヘイトリオ
暁伸・ミスハワイ
漫画トリオ
川上のぼる
レツゴー三匹
チャンバラトリオ
西川ヒノデ・サクラ
Wヤング
すっとんトリオ
ミスワカナ・玉松一郎
浮世亭歌楽・ミナミサザエ ※以下浮世亭一門も出演
松鶴家光晴・浮世亭夢若
姿三平・浅草四郎
Size:16 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
担当:undef