千島国(ちしまのくに)は、大宝律令の国郡里制を踏襲し戊辰戦争(箱館戦争)終結直後に制定された日本の地方区分の国の一つで、別称は千州。五畿八道のうち北海道 (令制)に含まれた。領域は最初国後島と択捉島のみであったが、後に得撫島以北の千島列島が加わり、色丹島も根室国から移管された。現在、旧千島国の全域をロシア連邦が極東連邦管区サハリン州の北クリル管区とクリル管区の全域、南クリル管区の一部として実効支配している。日本政府は、旧千島国の一部が北海道根室振興局管内にあたると主張している。 1869年(明治2年)の制定時の領域は、現在の北海道の国後島・択捉島に当たる。1876年(明治9年)に択捉水道から占守海峡にかけての北千島(概ね南から順に得撫島・知理保以南島・知理保以島・武魯頓島・新知島・計吐夷島・宇志知島・羅処和島・松輪島・雷公計島・捨子古丹島・越渇磨島・知林古丹島・春牟古丹島・温禰古丹島・磨勘留島・志林規島・幌筵島・占守島・阿頼度島など)が加わり、さらに1885年(明治18年)には根室国より色丹島を編入した。 ここでは千島国成立までについても記述する。 古墳時代以前、遺跡の存在から少なくとも武魯頓島まで続縄文文化に属する文化が及び[1]、飛鳥時代の斉明天皇のころ樺太で阿倍比羅夫が一戦交えた粛慎(みしわせ)(『日本書紀』)[2]は、当時占守郡域にも及んでいたオホーツク文化圏[3]に属する人たちとも言われている[4]。オホーツク文化は平安時代前期ころ擦文文化の影響を強く受けたトビニタイ文化へと移行し、鎌倉時代ころまで続いた。しかし、千島列島は火山噴火や巨大津波が定期的に発生し、得撫島より北ではオホーツク文化期にかけていったん拡大したものの、その後は炭素14による鑑定で生活痕が発見されない断絶期が13世紀半ばから約400年間あるなど、過酷な環境だった。 鎌倉時代から室町時代にかけて、北海道太平洋岸から千島国域にかけて日の本[* 1]と呼ばれる蝦夷(えぞ)(アイヌ)がおり、蝦夷沙汰職・蝦夷管領安東氏はこれを統括していた(『諏訪大明神絵詞』)[5][6]。時に蝦夷ヶ島で騒乱が起こると、津軽から出兵していたという[7]。その活動は、安東水軍を名乗る関東御免船が十三湊を拠点にかなり広範囲に及んでおり(『廻船式目』)[8][9]、和産物を蝦夷社会へ供給し、北方産品を大量に仕入れ全国に出荷していた(『十三往来』)[10][11][12][13]。和人社会からの商品流通が増加する中で、アイヌ文化が確立していったとみられる。15世紀までに、チュプカ諸島(新知郡域及び占守郡域)や勘察加(カムチャツカ)南端までアイヌが進出。後世、和人社会から流入する鉄鍋を模した内耳土器も各地から出土し、当時の様子をうかがえる。特に、得撫島周辺は古くから交易品として重要なラッコ皮の特産地であり、「ラッコ島」の異名を持つ。応永30年(1423年)4月、安藤陸奥守が室町幕府5代将軍足利義量に30枚(『後鏡』)、蠣崎(松前)慶広が文禄2年(1593年)豊臣秀吉に3枚(『新羅之記録』)と元和元年(1615年)徳川家康に長さ七尺幅に尺三寸のラッコ皮を献上。特に家康が手にしたものは、メナシ首長・ニシラケアイヌが松前にもたらした物であるという(『福山秘府』)[14][15][16]。17世紀以降は得撫郡域以南のメナシクルや新知郡域以北の「クルムセ」もしくは「ルートムンクル」が、カムチャツカ半島南端にかけ半定住・移動生活を送り、沈黙交易も行っていたと見られる[17]。 江戸時代に入り、道東アイヌの領域では、寛永12年(1635年)、松前藩は 村上掃部左衛門に命じ国後・択捉などを含む蝦夷地の地図を作成した。正保元年(1644年)、各藩が提出した地図を基に日本の全版図を収めた「正保御国絵図」が作成された。このとき幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。万治4年(1661年)、伊勢国飯高郡松坂の七郎兵衛の船が得撫島に漂着したが、蝦夷(アイヌ)の援助を受け択捉島や国後島経由で十州島(北海道本島)へ渡り、寛文元年(1662年)に江戸へ帰っている(『勢州船北海漂着記』)。延宝元年(1673年)勢州の商船、択捉島・トウシシルに漂着。
領域
沿革
古代・中世
国後場所の成立と択捉場所の分立
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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