千家元麿
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千家 元麿(せんげ もとまろ、1888年明治21年〉6月8日 - 1948年昭和23年〉3月14日)は、日本の詩人。人道派的な詩人として知られる。新しき村の関係者。
経歴

出雲国造家当主の千家尊福の長男(庶子)として東京市麹町区(現・東京都千代田区麹町)三番町の父の別邸に生まれる。母は画家の小川梅崖(本名・豊子)[注釈 1]。浦和、静岡、麻布六本木の小学校を転じたのちに、慶應義塾幼稚舎から慶應義塾普通部に入り、寄宿舎に入ったが1年で退学し、東京府立第四中学校(現・東京都立戸山高等学校)に転校して、校長の自宅に預けられた。1904年(明治37年)学業に興味を失い実家に戻る。さらに家出事件を起こし、仙台に預けられるも半年ほどで東京に帰る。神田英語学校に入る。この頃、上野、浅草界隈に遊ぶ。また、『萬朝報』、『電報新聞』、『新潮』などに俳句、短歌の投稿を始める。吉井勇佐藤惣之助らと識り、詩は河井酔茗、短歌は窪田空穗、俳句は佐藤紅緑に師事し[注釈 2]、自らの号を、暮郎、銀箭峰と定めた。この頃、実家が芝公園の官舎から牛込に移る[1]1909年(明治42年)11月自由劇場の第1回試演であるイプセンの「ヨーン・ガブリエル・ボルクマン」を有楽座で観劇、関心の対象が歌舞伎から新劇に移る。チェーホフトルストイの作品を読む。1912年大正元年)10月、讀賣新聞社にて開催された「ヒュウザン會」(のちに「フュウザン會」の展覧会で木村荘八岸田劉生を知る[2]。11月日本洋畫協會出版部により千家の編集による雑誌『生活』創刊[注釈 3]。12月福士幸次郎、佐藤惣之助らとらと雑誌『テラコツタ』創刊。誌上で武者小路実篤の『世間知らず』を激賞し、武者小路に師事し、交流を開始する。1913年(大正2年)赤沢千代子と結婚[注釈 4]1914年(大正3年)1月佐藤とともに雑誌『エゴ』創刊[注釈 5]。同月「ゴッホに就て雑感」、脚本「熱狂した子供等」、詩「六号雑記」、7月脚本「家出の前後」、11月小説「罪」をいずれも『エゴ』に寄稿。1916年(大正5年)3月個人雑誌『善の生命』を創刊。東京市外巣鴨村新田の千家宅を発行所とする。8月長男宏誕生。10月、犬養健らとともに同人誌『生命の川』を創刊[注釈 6]。これには、尾崎喜八倉田百三高橋元吉らも参加した。1917年(大正6年)9月同人誌『愛の本』を創刊[注釈 7]。11月同誌に詩「車の音」「わが児は歩む」「野球」「初めて子供を」「自分は見た」「白鳥の悲しみ」など16篇を発表[3]

1918年(大正7年)1月父尊福死去。3月白樺同人作成の『白樺の森』に詩を7篇寄稿。5月第一詩集『自分は見た』を上梓[注釈 8]1919年(大正8年)9月詩集『虹』刊行[注釈 9]。同年、次男潔誕生。1920年(大正9年)2月中川一政宮崎丈二らと雑誌『詩』を創刊。10月同人詩集『麥』を創刊する[注釈 10]。この頃、ほかに『白樺』にも作品を発表した。1921年(大正10年)4月詩集『野天の光り』[注釈 11]、10月詩集『新生の悦び』を刊行。1922年(大正11年)3月室生犀星、佐藤惣之助、尾崎喜八百田宗治らと詩誌『嵐』を創刊。7月曠野叢書の一冊『夜の河』刊行[注釈 12]、8月現代詩人叢書の一冊『炎天』刊行。この頃、『日本詩人』にも寄稿。またこの年鎌倉大町に転居。1923年(大正12年)9月、鎌倉より横浜に転居するが、1週間目に関東大震災罹災。川崎の佐藤惣之助の家に一時寄寓。次に夫人の郷里である埼玉県飯能に移り、天覧山の麓に住む。この頃、中西悟堂を知る。1924年(大正13年)3月新しき村出版部より脚本集『冬晴れ 千家元麿短篇脚本選集』刊行。妻子を飯能に置いたまま、自身は大井町滝王子に住む。9月詩集『眞夏の星』刊行。1926年(大正15年)7月詩集『夏草』刊行。1927年昭和2年)東京市外長崎町五郎窪(現在・豊島区長崎)に転居。1929年(昭和4年)6月自伝的作品『昔の家 長篇叙事詩』刊行。この頃、下落合葛ケ谷、江古田2丁目へと移り住んだ。病気のため半年ほど病院入院。のち豊島区長崎町、長崎南町(現在・5丁目)と転居。以後10年ほど外出することなく過ごす[4]1931年(昭和6年)3月詩集『霰 詩集』刊行[注釈 13]


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