千利休
[Wikipedia|▼Menu]
絹本著色千利休像
長谷川等伯画、春屋宗園賛、不審菴蔵、重要文化財

千利休(せんの りきゅう、せん りきゅう、大永2年(1522年) - 天正19年2月28日1591年4月21日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての茶人商人

わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。また、今井宗久津田宗及とともに茶湯の天下三宗匠と称せられ、「利休七哲」に代表される数多くの弟子を抱えた。また、末吉孫左衛門の親族である平野勘平衛利方と親しく交流があった。子孫は茶道三千家として続いている。千利休は天下人・豊臣秀吉の側近という一面もあり、豊臣秀吉が旧主・織田信長から継承した「御茶湯御政道」の中で、多くの大名にも影響力をもった。しかし秀吉との関係に不和が生じ始め、最期は切腹を命じられた。死に至った真相については諸説あり、定まっていない。
名・号

幼名は田中与四郎(たなか よしろう、與四郎とも)、のち法名を千宗易(せんの そうえき、せん そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)とした。

広く知られた利休の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会にあたって町人の身分では参内できないため、正親町天皇から与えられた居士号である。考案者は、大林宗套笑嶺宗?古渓宗陳など諸説がある。いずれも大徳寺の住持となった名僧で、宗套と宗?は堺の南宗寺の住持でもあった。宗陳の兄弟弟子であった春屋宗園によれば、大林宗套が考案者だったという(『一黙稿』)。しかし、宗套は禁中茶会の17年前に示寂しており、彼が関わったとすれば利休が宗套から与えられたのは「利休宗易」の名であり、若年時はの「宗易」を使用し、少なくとも与四郎と称していた天文4年(1535年)4月28日から天文13年(1544年)2月27日以前に宗易と号したと考えられる[1]。のちに宮中参内に際して(あざな)の「利休」を居士号としたと考えられる。こう考えれば宮中参内の2年前、天正11年(1583年)に描かれた肖像画(正木美術館蔵)の古渓宗陳による讃に「利休宗易禅人」とあることも理解できる。

号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)」と考えられている。「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは宗易を名乗っている。
生涯

和泉国商家(屋号「魚屋(ととや)」)の生まれ。父は田中与兵衛(田中與兵衞)、母の法名は月岑(げっしん)妙珎、妹は宗円(茶道久田流へ続く)。

家業は、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}納屋衆[要出典](倉庫業)。塩魚を独占的に扱う商人()ないし、そういった商人たちに倉庫を貸す「問」だったとされる(利休が切腹時に書いた遺産分け状の冒頭に「問の事、泉国ある程の分。同佐野問、塩魚座賃銀百両也」とある)[2]

19歳で父を失い、それと前後して祖父も失う[3]。祖父の七回忌に無財のため法要ができず、涙を流しながら墓掃除をしたとの日記が残る(不審庵蔵『緑苔墨跡』)。当時、応仁の乱の影響で、特権的商人たちは独占に対する保護を失い、苦境に立たされていた[4]

17歳より茶の湯を習う。利休の最初の師は北向道陳(『堺数寄者の物語』)[5]。『南方録』によると、その後、武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだとされているが、この記述は『堺数寄者の物語』や『南方録』のタネ本とされる『堺鏡』にはない[6]。他方、『山上宗二記』の記述から、利休の師は紹?ではなく辻玄哉だった可能性が指摘されている[7]

天文13年(1544年)2月27日、松屋久政らを招いて茶会を開く(『松屋会記』)。この茶会が信頼性のある記録の中で最初の利休の茶会である[8]。この茶会で利休は、珠光茶碗(技術的不備で青くなり損ねた青磁で、村田珠光が使っていた名物(『清玩名物記』))を用いており、以降、永禄2年(1559年)までの『松屋会記』および『天王寺屋会記』に記録されている4つの茶会でも、珠光茶碗を使っている[9]

商人としては、堺の実質的支配者であった三好氏[10]の御用商人となり、財を成したと推測されている[11]永禄4年(1561年)までに、珠光茶碗を三好実休に千貫で売っている(『山上宗二記』)[12]

堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。

永禄12年(1569年)以降の堺が織田信長直轄地となっていく過程で、堺の豪商茶人であった今井宗久津田宗及とともに、信長に茶堂として召し抱えられる。天正2年(1574年)3月に信長が京都相国寺で開いた茶会に、ほかの堺の有力商人9人とともに招かれたとの記録が残る(津田宗及『信長茶会記』)。このときまでに、堺の自治組織である会合衆の一員となっていたと考えられる[13]天正3年(1575年)、越前の一向一揆掃討戦を行う信長のために鉄砲玉を調達して送り、謝状を受け取っている(不審庵蔵『利休宛信長黒印状』)[14]

天正10年(1582年)6月の本能寺の変および山崎の戦いのあとは豊臣秀吉に仕えた。同年8月に秀吉を訪ねた利休は、茶室を作るように命じられ、約半年をかけて、翌年3月に現存する利休作の唯一の茶室である待庵を完成させた(『末吉勘兵衛宛利休書状』天正11年3月8日付)。このとき、薮内紹智に宛てた書状(天正10年11月14日付)に「迷惑なること」を秀吉から頼まれた、と記している[15]

天正11年(1583年)5月には、秀吉が近江坂本城で開いた茶会で初めて茶堂を勤めている[16]

天正12年(1584年)には、秀吉が築城した大坂城内の庭園空間である山里に、2畳の茶室を作っている[17]。その周りには垣と跳ね木戸が作られ(『宗湛日記』)、茶庭としての露地が生まれることとなった。これ以後、楽茶碗や竹花入などの茶道具を創作するようになる。

天正13年(1585年)10月の秀吉の正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき宮中参内するため居士号「利休」を勅賜される。同年、黄金の茶室を設計。天正15年(1587年)には、北野大茶湯を主管。同年完成した聚楽第内に屋敷を構え、築庭にも関わり、も3,000石を賜わるなど、茶人として名声と権威を誇った。秀吉の政事にも大きく関わっており、大友宗麟は大坂城を訪れた際に豊臣秀長から「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に」と忠告された。

天正19年(1591年)、利休は突如秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられる。大徳寺の山門は応仁の乱によって大破し、長らく放置されていた。利休は晩年にこの山門修築の事業を引き継ぎ、門の上に閣を重ねて楼門を造り、金毛閣を寄進した。その落成にあたって山門供養のために利休が春屋和尚に依頼し、その求めに応じて書かれたのが「千門萬?一時開」の一偈である。この文は、利休の影響力が自分の影響力を超えていると考え、秀吉を怒らせた。前田利家や、利休七哲のうち古田織部細川忠興大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70[注釈 1] 。切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図るおそれがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。死後、利休の首は一条戻橋梟首された。首は賜死の一因ともされる大徳寺三門上の木像に踏ませる形でさらされたという。墓所は大徳寺聚光院

利休が死の前日に作ったとされる遺偈が遺されている。人生七十 力囲希咄(じんせいしちじゅう りきいきとつ)吾這寶剣 祖佛共殺(わがこのほうけん そぶつともにころす)提る 我得具足の 一太刀(ひっさぐる わがえぐそく ひとつたち)今此時ぞ 天に抛(いまこのときぞ てんになげうつ) ? 久須見疎安『茶話指月集』(元禄14年(1701年))


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:66 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef