千住宿
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .pathnavbox{clear:both;border:1px outset #eef;padding:0.3em 0.6em;margin:0 0 0.5em 0;background-color:#eef;font-size:90%}.mw-parser-output .pathnavbox ul{list-style:none none;margin-top:0;margin-bottom:0}.mw-parser-output .pathnavbox>ul{margin:0}.mw-parser-output .pathnavbox ul li{margin:0}主要カテゴリ > 技術社会歴史 > 交通 > テーマ史技術史交通史 > 各国の交通史 > 日本の交通史 > 街道 > 千住宿.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、江戸時代の千住宿について説明しています。他の千住については「千住 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
葛飾北斎「冨嶽三十六景 武州千住」.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 千住宿(千住宿本陣跡)千住宿の位置[1]

千住宿(せんじゅしゅく、せんじゅじゅく)は、日光街道(正式には日光道中)および奥州街道(正式には奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町で、江戸四宿の一つである。
概要

千住宿は、武蔵国足立郡豊島郡荒川(現隅田川)曲流部で海抜2メートル前後の沖積低地上、荒川に架けられた千住大橋沿い、隅田川両岸に設置され、南北に延びる奥州街道・日光街道に沿って形成された宿場町である。日光街道および奥州街道の初宿で、水戸街道はここから分岐していた。現在の東京都足立区千住一丁目 - 五丁目、千住仲町、千住橋戸町荒川区南千住に相当する(現在の状況は、足立区千住荒川区南千住を参照)。

文禄3年(1594年)隅田川に千住大橋が架けられ、五街道の整備が進められると、慶長2年(1597年)に奥州街道・日光街道の宿駅に指定された。千住は、奥州街道・日光街道と荒川が千住大橋にて交差し、荒川・隅田川・綾瀬川が付近で合流しており運輸交通の便に有効な場所であったことから、隅田川で千住大橋沿いに橋戸河岸が置かれていた。千住河原町に設置されていた千住青物市場(やっちゃ場)は御用市場となった。千住は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。千住宿は岡場所としても発展した。また、千住宿近隣には行楽地が出現し浮世絵や絵画に描かれている。そして、千住宿の南の町小塚原町には江戸北の刑場として、小塚原刑場が置かれている。

東海道品川宿中山道板橋宿甲州街道内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれていたが[2]明治4年(1872年)に助郷制度・伝馬制廃止に伴い廃止された。
沿革葛飾北斎『富嶽三十六景 隅田川関屋の里』元和2年(1616年)。石出掃部介の新田開発によって築かれた掃部堤(かもんづつみ)の上を走っている様子が描かれている。
背景

千住の地名の由来は数説ある。一つに、新井兵部政勝が開基となり、勝専社専阿上人を開山として文応元年(1260年)草創された勝専寺[3] の寺伝によれば、嘉暦2年(1327年)に新井図書政次が荒川(現隅田川を指す。以下荒川と記述)で網で千手観音像を拾い[4]、この地を千手と呼んだことに由来するという。この像は息子でありこの寺の開基でもある新井兵部政勝によって同寺に移安されたとしている。また、足利義政愛妾千寿の出生地であったからという説や、その他千葉氏が住んでいた地域であったからという説がある。

荒川北岸部の足立郡千住村は、古くから水上交通の要所とされていた。室町時代幕府方山内扇谷上杉方、鎌倉公方(古河公方)が争い戦国時代の遠因の一つとなった享徳の乱1455年 - 1483年)で下総千葉氏により下総国を追われた武蔵千葉氏は武蔵石浜城から拠点を移し、この地を支配していたという。千住の近隣にある中曽根神社(本木)は、当時千葉自胤淵江郷入りした時に築かれた淵江城であったとも言われている[5]
開発足立郡から豊島郡まで伸びる千住宿が確認できる。大日本沿海輿地全図より[6]

五街道の整備と千住大橋の架橋「五街道」、「千住大橋の歴史」、および「宿場」も参照

五街道(日光街道・奥州街道・東海道・中山道・甲州街道)の整備に伴い、千住宿は日光・奥州街道の初宿に指定された。天正18年(1590年小田原征伐後、徳川家康が関東移封となり江戸城に入城した。五街道の整備が進められた。

文禄3年(1594年)荒川に千住大橋が架けられると、この地域は急速に発展した[7]江戸幕府は、江戸城を中心とした関八州(武蔵・相模・上総・下総・安房・上野・下野・常陸8か国)へ入る諸街道の渡には、千住大橋などを除いて架橋を許されなかった。千住宿の開発は、交通量の増大により宿場町と共に町域の拡大がすすめられた。荒川に千住大橋がかけられ、千住の地は江戸(日本橋)から2、奥州・水戸両街道の江戸への出入り口の関門として急速に発達した。

千住宿の指定

千住宿は、元の千住町が千住一?五丁目に分けられて本宿とされ、はじめに追加された千住掃部宿・千住河原町・千住橋戸町3町は新宿(本宿・新宿は足立郡)、そして最後に追加された荒川対岸にあった中村町・小塚原町の2町(豊島郡)は南宿(下宿)と呼ばれた[注釈 1]

慶長2年(1597年)には人馬継立の地に指定され千住町とされた。その後、寛永2年(1625年)に五街道の整備によって日光・奥州両街道の初宿に指定され、地子免除の代わりに伝馬役・歩行役を負担することとなった[10]。交通量増大により千住宿はその後も町域が広がり、『千住旧考録』によると石出掃部介の新田開発によって元和2年(1616年)に掃部堤(かもんづつみ)が築かれ、万治元年(1658年)に隣接する掃部宿(かもんじゅく)・河原町(かわらちょう)・橋戸町(はしどちょう)が開発された[11]。その2年後には荒川対岸の豊島郡側の万治3年(1660年)に千住大橋南側の小塚原町(こづかはらまち)・中村町(なかむらまち)が宿場に加えられた[7]
繁栄葛飾北斎「冨嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二」

千住宿の賑わい

千住宿は、『新編武蔵風土記稿』にて、千住宿の規模やその商業的な賑わいや旅行者の往来について記録されている[8]。駅の広さ東西十四五町、南北三十五町ありて、宿並間数千二百五十六間、その左右に旅亭商家軒をならべて、旅人絶ゆることなく、もっとも賑はへり ? 新編武蔵風土記稿

江戸市街の喉もとで奥州街道水戸街道の始点として、日光東北方面への旅人で賑わったという。幕末期には家は2,400軒近い。人口は約1万人に達する江戸四宿最大級の宿場町になった。文政4年(1821年)の調べによると、江戸参勤の大名は、日光街道4、奥州街道37、水戸街道23、計64の大名が千住の宿を往来していた。

千住の宿場町

千住の宿場町の構成は、千住二丁目と掃部宿に残る文政6年(1823年)の記録がある。職業が明らかなものだけについてみると、屋8軒、穀屋、八百屋胡粉屋、百姓各2軒、屋、屋、屋、紫刈屋、屋、鍛冶屋、棒屋、左官大工屋、わら屋、湯屋木材屋各1軒である。その他職業が分らないもの23軒、宿屋は「岡場所考」にあるだけでも45軒といわれている[7]。一角には接骨医として著名な名倉家が診療所を構え、患者で賑わっていたという[12]。宿場の外れには小塚原刑場が設置され、寛文7年(1667年)には、刑場付近の土地は回向院に与えられ、子院を建てた回向院は刑死した人の埋葬供養を行った[13]

『日光道中宿村大概帳』によると、天保14年(1843年)千住宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠55軒が設けられていた。宿内の家数は2,370軒、人口は9,456人であった[14]。その他、掃部宿には「一里塚[15]、「高札場」、千住一丁目に「問屋場 貫目改所」が設置された。元禄9年(1696年)には不足する人馬を周辺の村々から集める助郷制が定められた。
千住宿の廃止明細改正東京新図 1886年(明治19年)
右上に千住が確認できる。荒川北岸に千住北組・中組があり、南岸に南組があり、陸前浜街道水戸街道)が千住北組で奥州街道から分岐している

助郷制度の廃止と陸運会社の成立

明治時代になると、助郷制度が廃止され、代わりに陸運会社が置かれていった。明治初期には、交通の面に関していえば旧幕府時代の本陣、問屋場や弊害の多かった徳川幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的とした助郷制度等の封建的な交通機構は廃止された。明治4年に政府は従来の伝馬所を廃止し、各宿駅に陸運会社を設立した[16]

町村の再編成

明治時代には、明治維新による1878年(明治11年)地方制度に関する太政官布告郡区町村編制法」の施行 および1888年明治21年)「市制及町村制」を経て、千住南組を東京府北豊島郡南千住町、本宿であった千住北組、新宿であった千住中組は併合して同府南足立郡千住町とし郡役所を同町に置いた。千住大橋を境に再び南北に分離され、現在では北側は足立区、南側は荒川区に属している[17]
物資流通・商業施設

千住宿は日光街道および奥州街道の初宿で、水戸街道はここから分岐していた。荒川・綾瀬川が付近で交差していたことから水運(特に舟運)の中継地点として橋戸河岸(千住河岸)が置かれていた。また、河原町には千住青物市場(やっちゃ場)が設置されていた。このように、内陸交通の分岐地点、水運交通の中継地点、問屋の集中などから、江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。
千住青物市場

千住青物市場、問屋、そして産物

千住青物市場は、江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。『南足立郡誌』によると、千住青物市場は後陽成天皇天正年間(豊臣秀吉時代)に始まったという。この地は荒川に沿い関屋の里と称していたが、この時期は部落とされるものでなく人家の散在し、農家や漁夫により農産物、川魚の交換が行われた村に過ぎなかった。しかし、奥州街道、水戸街道の交通の要所となったことにより、戸数が増加したとある[18]

江戸時代、神田駒込・千住の三市場は幕府の「御用市場」として青物を上納していた。『南足立郡詩』によると、享保20年(1735年)3月市場の、『継続書記録』には後光明天皇正保徳川家光時代)、後西院天皇明暦徳川家綱時代)年間にはすでに市場として営業していた。千住大橋の架橋に伴い、農産物・川魚の中継地点となり、明暦より中御門天皇享保徳川吉宗時代)の時期には農産物・川魚などの産物が集合・出荷されており、幕末には、武蔵上総下総常陸方面の農産物も集まり繁栄した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:111 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef