この項目では、江戸時代の千住宿について説明しています。他の千住については「千住 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
葛飾北斎「冨嶽三十六景 武州千住」.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} 千住宿(千住宿本陣跡)千住宿の位置[1]
千住宿(せんじゅしゅく、せんじゅじゅく)は、日光街道(正式には日光道中)および奥州街道(正式には奥州道中)の日本橋から1番目の宿場町で、江戸四宿の一つである。 千住宿は、武蔵国足立郡・豊島郡の荒川(現隅田川)曲流部で海抜2メートル前後の沖積低地上、荒川に架けられた千住大橋沿い、隅田川両岸に設置され、南北に延びる奥州街道・日光街道に沿って形成された宿場町である。日光街道および奥州街道の初宿で、水戸街道はここから分岐していた。現在の東京都足立区千住一丁目 - 五丁目、千住仲町、千住橋戸町、荒川区南千住に相当する(現在の状況は、足立区千住、荒川区南千住を参照)。 文禄3年(1594年)隅田川に千住大橋が架けられ、五街道の整備が進められると、慶長2年(1597年)に奥州街道・日光街道の宿駅に指定された。千住は、奥州街道・日光街道と荒川が千住大橋にて交差し、荒川・隅田川・綾瀬川が付近で合流しており運輸・交通の便に有効な場所であったことから、隅田川で千住大橋沿いに橋戸河岸が置かれていた。千住河原町に設置されていた千住青物市場(やっちゃ場)は御用市場となった。千住は江戸に物資を運び込むための中継地点としても発展した。千住宿は岡場所としても発展した。また、千住宿近隣には行楽地が出現し浮世絵や絵画に描かれている。そして、千住宿の南の町小塚原町には江戸北の刑場として、小塚原刑場が置かれている。 東海道の品川宿、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿と並んで江戸四宿と呼ばれていたが[2]、明治4年(1872年)に助郷制度・伝馬制廃止に伴い廃止された。 千住の地名の由来は数説ある。一つに、新井兵部政勝が開基となり、勝専社専阿上人を開山として文応元年(1260年)草創された勝専寺[3] の寺伝によれば、嘉暦2年(1327年)に新井図書政次が荒川(現隅田川を指す。以下荒川と記述)で網で千手観音像を拾い[4]、この地を千手と呼んだことに由来するという。この像は息子でありこの寺の開基でもある新井兵部政勝によって同寺に移安されたとしている。また、足利義政の愛妾千寿の出生地であったからという説や、その他千葉氏が住んでいた地域であったからという説がある。 荒川北岸部の足立郡千住村は、古くから水上交通の要所とされていた。室町時代、幕府方、山内・扇谷上杉方、鎌倉公方(古河公方)が争い戦国時代の遠因の一つとなった享徳の乱(1455年 - 1483年)で下総千葉氏により下総国を追われた武蔵千葉氏は武蔵石浜城から拠点を移し、この地を支配していたという。千住の近隣にある中曽根神社(本木)は、当時千葉自胤が淵江郷入りした時に築かれた淵江城であったとも言われている[5]。 五街道の整備と千住大橋の架橋「五街道」、「千住大橋の歴史」、および「宿場」も参照 五街道(日光街道・奥州街道・東海道・中山道・甲州街道)の整備に伴い、千住宿は日光・奥州街道の初宿に指定された。天正18年(1590年)小田原征伐後、徳川家康が関東移封となり江戸城に入城した。五街道の整備が進められた。 文禄3年(1594年)荒川に千住大橋が架けられると、この地域は急速に発展した[7]。江戸幕府は、江戸城を中心とした関八州(武蔵・相模・上総・下総・安房・上野・下野・常陸8か国)へ入る諸街道の渡には、千住大橋などを除いて架橋を許されなかった。千住宿の開発は、交通量の増大により宿場町と共に町域の拡大がすすめられた。荒川に千住大橋がかけられ、千住の地は江戸(日本橋)から2里、奥州・水戸両街道の江戸への出入り口の関門として急速に発達した。 千住宿の指定 千住宿は、元の千住町が千住一?五丁目に分けられて本宿とされ、はじめに追加された千住掃部宿・千住河原町・千住橋戸町3町は新宿(本宿・新宿は足立郡)、そして最後に追加された荒川対岸にあった中村町・小塚原町の2町(豊島郡)は南宿(下宿)と呼ばれた[注釈 1]。
概要
沿革葛飾北斎『富嶽三十六景 隅田川関屋の里』元和2年(1616年)。石出掃部介の新田開発によって築かれた掃部堤(かもんづつみ)の上を走っている様子が描かれている。
背景
開発足立郡から豊島郡まで伸びる千住宿が確認できる。大日本沿海輿地全図より[6]。
繁栄葛飾北斎「冨嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二」