千代大海龍二
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千代大海 龍二


基礎情報
四股名千代大海 龍二
本名須藤 龍二
廣嶋 龍二(旧姓)
愛称角界の番長
大分の龍二
ツッパリ大関
チヨス
生年月日 (1976-04-29) 1976年4月29日(48歳)
出身大分県大分市(出生地は北海道千歳市
身長181cm
体重159kg
BMI48.48
所属部屋九重部屋[1]
得意技突き、押し[1]
成績
現在の番付引退
最高位東大関
生涯戦歴771勝528敗115休(104場所)
幕内戦歴597勝402敗115休(75場所)
優勝幕内最高優勝3回
十両優勝2回
三段目優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞1回
技能賞3回
データ
初土俵1992年11月場所
入幕1997年9月場所
引退2010年1月場所
引退後年寄佐ノ山九重[2]
趣味音楽鑑賞、インターネット
備考
金星1個(貴乃花1個)
2014年1月22日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

千代大海 龍二(ちよたいかい りゅうじ、1976年(昭和51年)4月29日 - )は、大分県大分市出身(出生地は北海道千歳市)で九重部屋に所属した元大相撲力士。本名は須藤 龍二(すどう りゅうじ)、旧姓は廣嶋(ひろしま)。最高位は東大関。現在は、年寄九重。九重部屋の師匠を務めている。
来歴
大相撲入門まで

オリンピック候補にまで上がった柔道家の父の下に生まれ、3歳から柔道を始め、父の下で柔道のスパルタ英才教育を受けたが、父は廣嶋が5歳の時に死去している。柔道は小学校に進学した際に一度中断し、その後小学3年生までサッカーを行っていた。4年生の時の1年間だけ野球をやり、5年生から柔道に復帰した。野球は投手か三塁手を希望していたが捕手をやらされ、サッカーは走るポジションを希望したがゴールキーパーをやらされたため、それらが不満で辞めた[3]。小学校5年時に、競技を再開してからわずか1年のキャリアで柔道の全国大会で3位入賞、中学3年時には年齢を偽って参加した極真空手の九州大会で3位入賞するなど、格闘センスは抜群であった。空手の得意技はローキックと掌底。その他、中学校時代に市内の相撲大会に出場し優勝を果たしたが、決勝戦の相手が後のパンクブーブー佐藤哲夫であった。

子供の頃から巨漢で、当時のあだ名は「ブッチャー」。5、6歳で体重は50kgくらいあった[3]。しかし運動好きで学校から帰ると毎日のように近くの海岸で友達とドッジボールをしていた。11歳となった小学校5年の時には既に体重は100kg近くまで増え、当時自宅の近所を溜まり場にしており、自宅前に煙草を投げ捨てた「高校生を2、3人ぶん投げて、そこから本格的に“デビュー”」、中学校時代は「よその県の不良がどれだけ強いか見たくて、九州は全部回ったし、愛媛とかにも“遠征”に行っていた」というほどの[4]大変な悪童として有名になり、2桁人数の高校生相手に単身で喧嘩して勝つなどの武勇伝を轟かせ、大分県最大で九州でも一二を争う勢力の暴走族「十二単」を率いていて[5][6]大分の龍二の名を九州全域に轟かせ、大分県警内でも要注意人物としてマークされる程であった。さらにやくざ数人と喧嘩したところ、相手のやくざに気に入られ、スカウトされたことがあった。佐賀県出身で同年代のはなわ曰く「大分の龍二と言えば僕でも知っている位の凄く有名な人だった」。ただ、不良少年(ヤンキー)ではあったものの、柔道を習っていたこともあり目上の人間には礼儀正しく、先生の言うことは素直に聞き、弱い者いじめもしなかったとされる。また、卒業式では号泣したという[4]

大分東明高等学校を担任の推薦で受験するも不合格。『Number Web』の記事によると中学2年生の頃から1人暮らしを行い、その頃から「学校に行かないならうちの管理下に置くぞ」と言ってくれた空手の師範が経営する会社で雇われ3年ほど鳶職に就くが[4]、いずれはSPになって「スポーツ選手や政治家のボディーガードとして、正義の力で悪を制していきたい」と思うようになり、師範からもSPの修行としてシカゴに行くよう勧められたため、半年ほどの予定で留学の準備を進めていた。アメリカに行くと報告する前に「俺に将来何になってもらいたいの」と母に聞いたところ、「力士になれ」と言われ、自分はSPになりたいと力説すると、母が台所から出刃包丁を持ち出し、龍二の頸動脈に突きつけ「いままで一生懸命育ててきたつもりだけど、そんなことを言うなら、この場でお前を殺して私も死ぬ」と、泣きながら言い出され[7][6]、母親を安心させたいと大相撲入りを決意する。そして、どうせなら最も強い人の弟子になろうと、相撲についてはほとんど知識がなくとも唯一名前だけは知っていた、現役引退直後の元横綱千代の富士(13代九重)の九重部屋へ母、従兄の3人で入門志願に出向く[7]。「あんちゃん座れ」と言われ正座すると、母親が隣で「千代の富士がいる……!」と興奮する一方、千代大海はいままで見てきた“その筋”の人たちとはまったく違う眼光の鋭さに「この人には殺されるな」という印象(本人曰く「柵のない状態で、ライオンと遭遇したような感覚」)を持ち、初見ながら「千代の富士」のオーラに圧倒されていた。その後「あんちゃん、何しに来たの?」という九重に対して「相撲界に入りたい、親孝行がしたい」と答えると、それまで厳しい表情だった九重が笑顔になり、母親に対して「この子は頑張れそうだね」と言ったため入門を許されたと思ったが、金髪に剃り込みを入れたリーゼント姿(不良の礼儀のつもりだった)に対して「その前にこの頭を何とかしてこい!」と一喝されたため、大分に一旦帰って頭を剃り、丸めた頭で次の朝出直すと「剃ることはないだろ!」という言葉とともに入門を許された[8][5]。さすがの九州一の悪童もすくみ上がったものの、喧嘩に明け暮れた廣嶋少年は徒心を出して取り組み時に九重の力量を試みるも瞬時に伸されてしまい、以降、師として仰ぐ[6]。千代大海の大関昇進後、13代九重は、報道・バラエティ番組などで笑い話としてこのいきさつをしばしば回想している。さらにはこの頃のエピソードとして、「どうして相撲をやろうと思ったの?」と聞いたところ「親孝行がしたいからと言ってきた」とも述べ、「それでこの子は頑張れるなと思いましたね」とも語っており、前述した千代大海の回想とも一致している。最初、大相撲の知識は序ノ口から横綱まである番付も知らず、新弟子の頃からカラフルな締め込みを使えると勘違いしているほどであったが、基本的なシステムを1日で覚えたら「なんて楽しい世界だ、北から南まで強い奴らがここに集まっている!」と身震いがして、その日は興奮で寝つけなかった[9]

一方、自身の引退直後に朝日新聞に掲載された来歴は『Number Web』の記事と異なる。高校の推薦は特待生の話も「勉強は大嫌いだ」「相撲は格好悪い」の一点張りで断り、中学卒業後は鳶になった。母とすれば「手に職をつけられれば、食べていけるだろう」とアパートも手配した。仕事は3ヶ月は続いたが巨体のため高所の作業はさせてもらえず、力仕事で通常1人1本持つ鉄パイプを3本も4本も持たされるのが嫌で途端にサボり出した。ある日、親方から出勤してこないと電話があり、アパートまで足を運んだ母が異変に気付いて裏窓を叩き割って突入すると、廣嶋ら5、6人がシンナーを吸引してへろへろになっていた。すぐさま母はアパートの部屋を解約して廣嶋を連れて帰った。程無くして仕事を怠けてシンナーを吸引するような廣嶋に業を煮やして母が心中を仄めかす一芝居を打つと10日後に廣嶋は「千代の富士に電話をしてくれ」と一番人気のあった元横綱というだけの理由で母に頼み、1992年10月末に九州場所で福岡入りしていた九重に会いにいくことになった[10]
角界入り

1992年(平成4年)11月場所に初土俵。千代大海の四股名は、母が大分の「大」と北海道の「海」を合わせて「大海」として考案した。入門直後、同期生と相撲を取っている時に空手の経験を活かして突っ張りを行っていたが、師匠が「お前はそれでいきなさい」と言って、ものの30秒くらいで型が決まった[9]。若い衆時代は稽古だけでなく雑用にパシリを行い、時には夜逃げする人の布団を丸めて、寝ているように偽装して助けた。それまで自分がどんな武勇伝を持っていようと関係ない世界であるため「パシらされるってこういう気持ちなんだ」と自分のしてきたことを悔い改めた[11]

『大相撲』1999年3月号の特集『千代大海物語』によると根性が備わっているとともに実に素直で、模範的な弟子であったという。同誌の41頁に記された女将の証言によると「今の子は怒られても、自分が怒られているという自覚がなく、ぼーっと聞いている子が多い。千代大海は親方の説教を真剣に聞いていた」とのことである。1995年(平成7年)7月場所に19歳、初土俵から2年半で十両昇進とスピード出世を果たす。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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