千代の富士
[Wikipedia|▼Menu]

千代の富士 貢

九重親方当時の千代の富士(2010年)
基礎情報
四股名千代の富士 貢
本名秋元 貢(あきもと みつぐ)
愛称ウルフ[1]、(北の湖等との比較で)小さな大横綱、昭和最後の大横綱
生年月日 (1955-06-01) 1955年6月1日
没年月日 (2016-07-31) 2016年7月31日(61歳没)
出身北海道松前郡福島町
身長183 cm[2]
体重127kg[2]
BMI37.91
所属部屋九重部屋[2]
得意技右四つ、上手投げ[2]
成績
現在の番付引退
最高位第58代横綱
生涯戦歴1045勝437敗159休(125場所)
幕内戦歴807勝253敗144休(81場所)
優勝幕内最高優勝31回
幕下優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞1回
技能賞5回
データ
初土俵1970年9月場所
入幕1975年9月場所
引退1991年5月場所
引退後九重部屋の師匠
備考
金星3個(三重ノ海2個、若乃花1個)
2019年7月4日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、1955年昭和30年)6月1日 - 2016年平成28年)7月31日)は、北海道松前郡福島町出身で九重部屋に所属した大相撲力士。本名は秋元 貢(あきもと みつぐ)。第58代横綱。昭和最後の大横綱。位階従四位。血液型はA型
来歴
秋元少年の角界入り

秋元貢は1955年、北海道松前郡福島町で漁師の家に誕生。父は筋肉質というほどではなかったが骨太で、貢に骨格面が遺伝したものと見られる[3]。子供の頃から漁業を手伝うことで自然に足腰が鍛えられ、運動神経が抜群で最初はスポーツとしてはバスケットボールを行っていた[3]。特に福島町立福島中学校の陸上競技部では走り高跳び三段跳びの松前郡大会で優勝し[4]、中学時代は走り高跳び1m62、三段跳びは12m58という記録が残っている[3]。「オリンピック選手でもいける」と言われるほどだったが相撲は大嫌いだった。幼少期から体格は同級生より頭一つ大きく、食卓に並んだホッケや鮭などの魚類で体を作っていた[3]。中学1年生の時に盲腸炎の手術を受けたが、腹の筋肉が厚いために手こずり、予定を大幅に上回る長時間の手術となり、終了直前に麻酔が切れた。それでも必死に耐え続ける体格の良い貢を見た病院長が千代の山の入門の世話をしたことがある若狭龍太郎(当時、九重部屋北海道後援会世話人)に連絡した。九重(千代の山)と、貢の母の実家である大村家が遠縁であり[4]、北海道巡業の際に九重は直々に秋元家に勧誘に赴いたが、貢自身は乗り気がせず、両親も入門に大反対したため一旦は断った。

それでも諦めない九重は貢に対して「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機[補足 1]に乗っけてあげるよ」[5][6]「中学の間だけでも(相撲を)やってみて、後のことを考えたらどうだ?」などと持ちかけると、貢は飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めた。まだ現役であった北の富士も貢と会っているが、その時を後に北の富士は「小さかったよ。だけど、物おじしないで平気な顔で部屋に来たのを覚えている。『おれのこと知ってるか』と聞いたら、『知らない。大鵬なら知ってるけど』。それが初めての会話だった。」と振り返っている[7]。上京前夜には、父が巡業の接待役にあたっていた貴ノ花に会わされ、「坊や、相撲に行くんだって?」「(九重部屋は)親方もいい。横綱もいい。とっても明るくて、いい部屋だよ……坊や、目つきが違うぞ。頑張れよ」と声をかけられた[8]
五文字の関取誕生

中学3年生で[補足 2]本名のまま1970年9月場所初土俵を踏み、翌11月場所序ノ口につき「大秋元」と改名、1971年1月場所序二段に昇進すると「千代の冨士」(1975年1月場所より「千代の富士」[9])と名付けられた[6]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:298 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef