じゅうもんじ だいげん
十文字 大元
生年月日1868年
没年月日1924年12月21日
職業実業家、活動写真弁士、自彊術家
配偶者十文字こと
著名な家族十文字信介 兄
十文字俊夫
十文字 大元(じゅうもんじ だいげん、1868年 - 1924年12月21日[1])は、日本の実業家、活動写真弁士、自彊術家である[1]。金門製作所創立者、日本初の活動写真弁士のひとりであり、自彊術の命名者である[1]。 1868年(明治元年)、陸奥国遠田郡涌谷(現在の宮城県遠田郡涌谷町)に生まれる[1]。父親は陸前仙台藩の支藩である涌谷藩の師範家・十文字秀雄、兄に政治家・実業家の十文字信介[2]がいる[1]。 1890年(明治23年)にアメリカ合衆国に渡り、カリフォルニア州サンフランシスコで過ごす[3]。帰国して、1894年(明治27年)、東京・神田須田町に兄信介ともに十文字商会[4]を開業する[3]。のちに独立して開業する金門商会は、同地のゴールデンゲートブリッジ(金門橋)にちなんだものである。
人物・来歴
1904年(明治37年)、金門商会(のちの金門製作所)を創立、日本で初めてガスメーターおよび水道メーターを製造し、これを販売した[1]。このころから神経痛を病み、ハワイで長期療養を行う[3]。1907年(明治40年)ころからは、大橋新太郎らによる輸入品に席捲される[3]。
1913年(大正2年)、代議士に立候補するが落選、選挙運動費1万2,000円内外を棒に振る[3]。駒ヶ嶽國力のファンで、当時毎日のように両国の国技館(1917年焼失)に通い、声援を送った[3]。
1916年(大正5年)、中井房五郎が考案した体操により、長年病んだ神経痛を治癒、これを十文字が「自彊術」と名づけ、普及に努める[1]。1921年(大正10年)、『自彊術の解説と実験談』を実業之日本社から上梓する[7]。翌1922年(大正11年)、妻ことは十文字学園(現在の十文字学園女子大学)の前身・文華高等女学校を設立する[5]。