十市氏(とおちし、とうちし、といちし[1])は、日本の氏族のひとつ。 大和国十市郡十市(現在の奈良県橿原市十市町)を本拠とした国人で[2]、興福寺大乗院方の国民[3]。 『延喜式』民部上に「トヲチ」の訓みが載るが、文和2年(1353年)には「トイチ」の訓みが見られ[注釈 1]、これ以降は十市(といち)氏を称していたと考えられる[4][注釈 2]。 出自については、十市氏は中原氏を自称しており(『群書類従』所収「十市遠忠自歌集」[7])、中原姓を賜った十市宿禰有象の系譜を引くともいわれるが、確かなことは不明[8]。他にも物部氏族説(『五郡神社記』)、藤原姓説(「和州十市城主氏姓伝」)がある[4]。 新次郎の子とみられる遠康も南朝方にあり、北朝方の興福寺領の荘園を侵害して領主化を進めていったと考えられる[9]。 遠康の後は、遠重
大和十市氏
沿革(新二郎)が北朝方への段米を抑留している[8]。
明応6年(1497年)10月、遠相の子(某の弟)とみられる遠治が十市氏の惣領となる[15]。遠治は筒井党として越智党と戦い、十市氏の知行を回復させていった[16]。永正2年(1505年)2月には、大和国人の間で和睦が成立[17]。翌年より赤沢朝経・長経が大和に侵入してくるとこれと戦うが、遠治ら大和国人は敗北を重ねた[17]。
天文3年(1534年)に遠治が没すると、遠忠が跡を継いだ[18]。遠忠は龍王山城を拠点に、大和に侵入した木沢長政とそれに与する筒井順昭を相手に戦ったが、天文9年(1540年)、興福寺の求めにより和睦した[18]。天文11年(1542年)に長政が死去した後は、十市氏の旧来の支配圏を取り戻したものとみられる[18]。
天文14年(1545年)、遠忠の跡を遠勝が継ぐ[19]。翌天文15年(1546年)、敵対した筒井順昭により龍王山城を奪われたとみられる[20]。永禄2年(1559年)になると、三好長慶家臣・松永久秀が大和に侵攻し、敗れた遠勝は没落した[21]。その後、松永久秀に人質を差し出すも、離反[21]。永禄11年(1568年)には敗れ、再び松永氏に降った[22]。
永禄12年(1569年)に遠勝が没した後は、十市後室(遠勝の妻)とおなへ(遠勝の娘)を擁する松永派と、一族の十市遠長を中心とし筒井順慶に通じようとする筒井派とに家中が分裂する[23]。