十市有象
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 凡例中原 有象
時代平安時代中期
生誕延喜2年(902年[注釈 1]
死没不明(貞元3年(978年8月6日以後)
官位従四位下治部卿
主君朱雀天皇村上天皇冷泉天皇円融天皇
氏族十市(とおち)首[2]→十市宿禰→中原宿禰→中原朝臣
父母十市春宗
致時[2]、致親、師光、致明[注釈 2]、致行
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中原 有象(なかはら の ありかた[2][注釈 3])は、平安時代中期の儒学者貴族美濃介・十市春宗の子。官位従四位下治部卿

中原氏氏祖[注釈 4]。学問と朝廷の事務方の双方で活躍し、左大臣藤原在衡とも親しかった。
出自

十市氏の出身で、十市春宗の子として[4][注釈 5]延喜2年(902年)に生まれた[注釈 1]。十市氏は十市部(とおちべ)つまり十市県(とおちのあがた、奈良盆地南部)の部民を管掌する氏族だったので、十市部氏とも呼ばれた[5]。そのため、有象もまた、自署は「十市有象」であるにもかかわらず[注釈 6]、同時代の史料ではしばしば「十市部有象」とも書かれる[1]

十市氏は、後代の中原氏の系譜では安寧天皇第三皇子磯城津彦命末裔とされるが、記紀にそのような話はなく、『古事記』で十市氏の祖とされるのは、第8代天皇孝元天皇の外戚である十市県主大目という伝説的人物である[5]。その他にも色々と疑わしい点があることから、太田亮は、十市氏(=中原氏)を安寧天皇後裔とするのは、後世の中原氏が自氏に箔をつけるために仮冒したのであろうと推測している[5]

有象以前に十市氏から明経学者が出た例としては、『類聚符宣抄』九に、延長8年(930年7月24日従五位下十市部良佐(十市良佐)が助教として天文密奏を行ったことが見える[6]。なお、後世の系図類では、明経学者一族であるだけではなく、父の春宗や、叔父とされる十市良忠(良佐と同一人物とされる)も外記局に務めていた事務方一族でもあったと書かれている[7]。しかし、『外記補任』には春宗や良忠が務めていたという記録はなく、井上幸治は、史料上は否定できるとしている[8]
経歴

朱雀朝承平元年(931年明経学生であったが、准得業生可課試宣旨を受ける。兵部少録・直講を経て、天慶5年(942年)権少外記に任ぜられると、天慶6年(943年)少外記、天慶9年(946年)大外記と外記局で昇格してゆき、天慶6年(943年)には故・藤原高子清和天皇妃)の皇太后復位の儀の際に、外記として事務・書記を行っている[9][10]。またこの間の天慶8年(945年)には姓から宿禰姓に改姓した。

天慶9年(946年)4月に村上天皇即位に伴って従五位下叙爵されるが、7月には遠江介に遷り外記局を離れる。のち、出雲守と地方官を務めたのち、天徳2年(958年律令制における儒学者の頂点である明経博士に任ぜられた。応和4年(964年村上天皇中宮藤原安子の崩御にあたって、文章博士・菅原文時や明法博士・実憲とともに服喪の際の慣例や規則についての諮問を受けた[11]安和2年(969年尚歯会という、七叟(主人を含む7人の高齢の有識者)が高齢を祝う宴席に、大納言藤原在衡を主人とする七叟の一人として列席している[12][注釈 7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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