十大弟子 (じゅうだいでし)とは、釈迦(釈尊)の弟子達の中で主要な10人の弟子のこと。最初は具体的な弟子を特定していなかったが、大乗経典により特定の弟子の呼称が定着した。特定の弟子への信仰は中国で始まったとされる[1]。
十大弟子釈尊と十大弟子を描いた江戸期の挿絵。『法華自我偈絵抄』1814年
経典によって誰が十大弟子に入るかは異なるが、『維摩経弟子品』では@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}出家順に[要出典]以下の通りである[2]。
舎利弗(しゃりほつ)パーリ語でサーリプッタ (S?riputta、सारिपुत्त)。サンスクリット語でシャーリプトラ(??riputra)。舎利子とも書く。智慧第一。『般若心経』では仏の力を承けた観音菩薩の説法の相手として登場。また、『阿弥陀経』では仏の説法相手として登場するなど、多くの経典に登場する。
摩訶目犍連(まかもっけんれん)パーリ語でマハーモッガラーナ (Mah?moggall?na、महामोग्गळान)。サンスクリット語でマハーマウドガリヤーヤナ (Mah?maudgaly?yana)。 一般に目連(もくれん)と略称される。神通第一(じんずう・だいいち)。舎利弗とともに懐疑論者サンジャヤ・ベーラッティプッタの弟子であったが、ともに仏弟子となった。中国仏教では目連が餓鬼道に落ちた母を救うために行った供養が『盂蘭盆会』(うらぼんえ)の起源だとしている。
摩訶迦葉(まかかしょう)パーリ語でマハーカッサパ(Mah?kassapa、महाकस्सप)、サンスクリット語でマハーカーシャパ(Mah?k??yapa)。大迦葉とも呼ばれる、頭陀(ずだ) 第一。釈迦の死後、その教団を統率し、第1結集では500 人の仲間とともに釈迦の教法を編集する座長を務めた。禅宗は付法蔵 (教えの奥義を直伝すること) の第2祖とする。
須菩提(しゅぼだい)パーリ語でもサンスクリット語でもスブーティ(Subh?ti、सुभूति)。解空第一(げくう・だいいち)。『金剛般若経』等、空を説く大乗経典にしばしば登場する[注釈 1]。
富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)パーリ語でプンナ・マンターニープッタ(Pu??a Mant?n?putta)、サンスクリット語でプールナ・マイトラーヤニープトラ(P?r?a Maitr?yan?putra、पूर्णमैत्रायनीपुत्र)。略称として「富楼那」。他の弟子より説法が優れていた。説法第一。
摩訶迦旃延(まかかせんねん)パーリ語でマハーカッチャーナ(Mah?kacc?na、महाकच्चान)、サンスクリット語でマハーカートゥヤーヤナ(Mah?k?ty?yana)。論議第一。辺地では5人の師しかいなくても授戒する許可を仏から得た。
阿那律(あなりつ)パーリ語でアヌルッダ(Anuruddha)、サンスクリット語でアニルッダ(Aniruddha、अनिरुद्ध)。天眼第一(てんげん・だいいち)。釈迦の従弟。阿難とともに出家した。仏の前で居眠りして叱責をうけ、眠らぬ誓いをたて、視力を失ったがそのためかえって真理を見る眼をえた。
優波離(うぱり)パーリ語でも、サンスクリット語でもウパーリ(Up?li、उपालि)。持律第一。もと理髪師で、階級制度を否定する釈迦により、出家した順序にしたがって、貴族出身の比丘の兄弟子とされた。
羅?羅(らごら)パーリ語でも、サンスクリット語でもラーフラ(R?hula、राहुल)。羅雲とも書かれる。密行第一(みつぎょう・だいいち)。釈迦の長男。釈迦の帰郷に際し出家して最初の沙弥(少年僧) となる。そこから、日本では寺院の子弟のことを仏教用語で羅子
表
話
編
歴
仏教
基本教義
四諦
八正道
中道
三相
無常
苦
無我
解脱と涅槃
人物
釈迦
十大弟子(舎利弗/目連/大迦葉/須菩提/富楼那/迦旃延/阿那律/優波離/羅?羅/阿難)