十和田丸_(2代)
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十和田丸(2代)

基本情報
船種客載車両渡船
船籍 日本
東京(国鉄)
函館(JR北海道)
運用者日本国有鉄道(1966年-1987年)
北海道旅客鉄道(JR北海道)(1987年-1988年)
建造所浦賀重工業 [1]浦賀工場[2]
姉妹船津軽丸(2代)八甲田丸
松前丸(2代)大雪丸(2代)
摩周丸(2代)羊蹄丸(2代)
建造費18億2600万円[3][4][5]
信号符字JMUK
経歴
起工1966年(昭和41年)2月15日[4]
進水1966年(昭和41年)6月23日[4]
竣工1966年(昭和41年)10月16日[1][4]
就航1966年(昭和41年)11月1日[4]
終航1988年(昭和63年)3月13日(定期運航)
1988年 (昭和63年)9月18日(暫定運航)
最後1990年(平成2年)クルーズ客船「ジャパニーズドリーム」へ改装
要目 (新造時)
総トン数8,335.25トン
(5,397.59 トン[6]
全長132.00m
垂線間長123.00m
型幅17.90m
型深さ7.20m
満載喫水5.20m
主機関単動4サイクルトランクピストン
排気ターボ過給機付ディーゼル機関
川崎 MAN V8V 22/30mAL
8台
最大出力13,400軸馬力[7]
定格出力1,600制動馬力×8
最大速力21.56ノット [7][8]
航海速力18.20ノット
旅客定員1,200名[1]
乗組員53名
車両搭載数ワム換算48両
その他鉄道電報略号: トワマ
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十和田丸(2代)(とわだまる、Towada Maru)は、津軽丸型第7船として1966年(昭和41年)10月に建造された客載車両渡船で、同年11月から1988年(昭和63年)9月まで、日本国有鉄道(国鉄)および北海道旅客鉄道(JR北海道)の青函連絡船として運航された。

同連絡船廃止後は日本旅客船に売却され、ジャパニーズドリームと改名し、1990年(平成2年)3月から1992年(平成4年)1月まで横浜 - 神戸間のクルーズ客船として運航された。

なお、十和田丸の名称は青函連絡船としては2代目であった。
十和田丸(2代目)建造の経緯

※津軽丸型としての詳細は津軽丸(2代)参照

津軽丸型6隻の建造計画は、国鉄内に設置された「青函連絡船取替等委員会」が1963年(昭和38年)8月3日に提出した第2次報告に沿って進められたもので、戦中戦後の混乱期に建造された船質の良くない連絡船の代替と、青函航路の輸送力増強を目的に、1965年(昭和40年)までに津軽丸型 6隻を建造し、老朽船9隻を引退させるというものであった。当時はこれで1969年 (昭和44年)の想定貨物輸送量(片道)378万トン(上り実績418万トン)までは対応可能と見込んでいたが[9]高度経済成長継続による北海道内の消費水準の向上、農業・土木の近代化に伴う化学肥料や機械・車両の入り込みもあり、下り貨物の輸送量も1965年(昭和40年)には300万トンに達し(上りは328万トン)、積車数では下りが上りを上回る事態で、その伸びは著しく[10]、早くも1966年(昭和41年)以降の貨物輸送の逼迫が予想された。旅客輸送においても、折からの北海道観光ブームでその増加は著しく、津軽丸型 6隻就航後の、1965年(昭和40年)10月1日ダイヤ改正からは、津軽丸型3時間50分運航による部分的な1日2.5往復運航開始により、津軽丸型5隻12往復、うち9往復が旅客扱い便、さらに車載客船十和田丸(初代)による4時間30分運航の旅客便1往復もあり、旅客便は合計10往復となり、それ以前の6往復から大増発となった。しかし、十和田丸(初代)は、旅客定員は多いが船足が遅く、貨車航送能力もワム18両と少ないため、旅客便としても貨物便としても使いづらく、同ダイヤ改正以後は1日1往復のみの運航となっていた。そこで十和田丸(初代)を1966年(昭和41年)秋でいったん係船し、それまでに客貨とも輸送能力の高い津軽丸型をもう1隻追加建造することが1965年(昭和40年)10月22日の常務会で決定され[11][12]、11月15日 その建造が浦賀重工へ発注され、翌1966年(昭和41年)2月15日起工、10月16日竣工した。これが2代目十和田丸であった[4]。これにより津軽丸型は7隻となり、青森、函館両桟橋の第1岸壁、第2岸壁で55分折り返し運航が可能となった1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正から、1隻入渠中も残り6隻での年中無休の15往復運航が始まり、そのうち9?11往復で旅客扱いが行われた。後年旅客扱い便は減少したが、6隻15往復体制は1988年(昭和63年)3月13日の終航まで続けられた。
概要船楼甲板と遊歩甲板の甲板室前面が直立し、操舵室後部の甲板室が延長し、救助艇が屋根付きになり(1981年に屋根なしとなる)、船楼甲板左舷前寄りに近接した小窓二つの事務長室があり、脱出用滑り台支持ひも受け等の違いが見られた。また2等乗船口が平行四辺形となっているが、本船のほか、松前丸と羊蹄丸でもそうであった。1975年7月20日撮影

本船は津軽丸型第7船で、船体構造や一般配置は基本的に津軽丸型前6隻に準拠していた。しかしこれら6隻では、多くの新しい機器類や制御システムがほとんどぶっつけ本番で、また船により異なった仕様で導入されたりもしていた。本船起工の時点で、津軽丸(2代)竣工から1年10ヵ月、第6船の羊蹄丸(2代)竣工からでも7ヵ月経過しており、これら6隻での使用実績やその後の技術進歩も反映して改良され、これら新機軸もようやく完成品の域に達した。これに伴い、操舵室や機関室、係船機械類の配置や仕様の変化、一部船員居住区の配置換えもあって、若干の外観の変化も見られた。
津軽丸型前6隻との差異
外観の変化プロペラ制御盤 津軽丸・八甲田丸・松前丸の新造時のものに似ていたが、推進用可変ピッチプロペラ(CPP)翼角操縦レバーの長さが短くなり、そのカマボコ型前後行程も短縮され、翼角計は直線型から、大雪丸 から採用された指令翼角指針を外周に、実際翼角指針を内側に置く丸型になり、両舷のCPP操縦レバーのカマボコ型行程の間の手前側に設置されたが、これらとは別にCPP指令翼角が直観的に分かるよう、翼角操縦レバーのカマボコ型行程上にも目盛板が貼られた[13]。またカマボコ型行程上には当該翼角操縦レバーが指令権を得た時に点灯するCPP操縦場所表示灯も設置された。この二つのCPP翼角計の間の丸型メーターの中心に立つ操縦グリップがバウスラスター(BT)操縦グリップで、このメーターがBT指令翼角計を兼ね、その向うの丸型メータがBT実際翼角計で、この間にBT操縦場所表示灯があったが、この写真では隠れて見えない[14]。その両側の2個の丸型メーターの中心に立つグリップは、CPP遠隔操縦システム故障時に、翼角を機側操縦する第3補機室への指令を出す「プロペラテレグラフ」で、前6隻ではCPP操縦レバーで兼用していたが、本船から別建てとなった。なお左舷CPP操縦レバーの左側には、通常時に総括制御室への指令を出す押しボタン式の「エンジンテレグラフ」があり、その左側には通常の離着岸時に船尾係船作業場へ指令を出す丸い「ドッキングテレグラフ」が設置されていた。また、右舷CPP操縦レバーの右側には、操舵機遠隔操縦システム故障時に、機側操舵する操舵機室へ指令を出す丸い「ステアリングテレグラフ」が設置されていた。CPP翼角操縦レバー手前の小スイッチ類は、左の一群が左舷CPP関連で、左から左舷CPP操縦方法選択スイッチ(非常用第1・常用第1過負荷防止装置なし・同あり・常用第2過負荷防止装置あり・同なし・非常用第2の6ポジションからどれか一つを選択)、左舷CPP翼角中立表示灯、左舷CPP翼角非常操縦用スイッチ(非常用第1または第2を選択した時に使うノンホローアップスイッチで、翼角はこのスイッチを倒した方向へ進み続け、中立に戻すと進みが止まる)であった。その右側、中央の一群がバウスラスター(BT)関連で、左からBT油圧ポンプおよび主電動機制御スイッチで、停止・ポンプ運転(BTの可変ピッチプロペラ変節用油圧ポンプ運転)・運転(電動機が回転しプロペラが回転)の3ポジションで、BT使用時はこれを順次運転開始して使用可能状態とした。その右手前がノンホローアップのBT非常操縦スイッチ、その前方にBT翼角中立表示灯があり、その右にBT操縦方法選択スイッチ(常用・非常用の2ポジションのいずれかを選択)で、右の一群が右舷CPP関連で、左舷側と左右対称に配置されていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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