十勝沖地震
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、北海道の十勝地方南東沖で発生する地震について説明しています。1968年5月に青森県東方沖で発生した地震については「十勝沖地震 (1968年)」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Microsoftコードページ932はしご高))が含まれています(詳細)。

十勝沖地震(とかちおきじしん)は、北海道十勝地方の沖合を震源として起こる地震。過去に数回発生しているため、発生年または元号を付して「○○○○年十勝沖地震」「○○十勝沖地震」と区別されることが多い。
概要

北海道十勝沖からロシア連邦カムチャツカ半島沖にかけて千島海溝が存在しているが、この海溝では太平洋プレート北アメリカプレートの下に年間数cmの速度で沈み込んでいる。このため両プレートの境界で歪みが発生し、その歪みの開放により発生する逆断層型の海溝型地震である。

想定される十勝沖地震のマグニチュード (M) は8前後、発生間隔は約60 - 80年と見られている。これまで M8クラスの地震が1843年、1952年、2003年と繰り返し発生している。400 - 500年程度の間隔で根室沖地震連動してきた可能性があり、2003年の十勝沖・1973年の根室沖の次の地震が連動した場合の規模はM8.3程度と推定されている[1]後述)。なお、1968年の地震は震源域が「三陸沖北部」に分類されるため、この周期に含まれない[2]

また、十勝沖では17.5年周期でM7前後のひとまわり小さい海溝型地震や27.3年周期で沈み込むプレート内部で発生するM7-8程度のスラブ内地震(深発地震)も発生する[1]
被災史

文書に残る十勝地域の歴史地震は慶長年間の松前藩によるトカチ場所の設置及び、1666年(寛文6年)のビロウ場所の設置以降で、松前藩以前の道東地域に主に居住していたアイヌによる史料は残されていない[3]との研究があったが、2005年に清水康博による津波に関するアイヌの口碑伝説と記録に関する研究によれば、標高5m海岸からの距離15kmまでの地域に津波が襲った可能性ある話が成り立つアイヌ伝説は、鵡川町のムリエトへの丘伝説やウコト゜イの洞窟伝説、白糠町のキラコタン伝説、釧路市トイトウ(海抜10m海岸線3km)の津波伝説など、少なくとも20の口承伝説について成立し実際の津波被災体験に基く伝説が継承されていた可能性あった。またそれらの伝説が語られた地域は釧路海岸と日高から胆振海岸および内浦湾沿岸に多いなどの地理的分布上の特徴があった。釧路の津波伝説については春採湖の地質研究により少なくとも過去9000年間に20層の津波イベント堆積物の報告がありアイヌの人々が津波を経験していた可能性がある[4]
17世紀型地震

北海道東部沿岸では、津波堆積物の分布から17世紀に大規模な津波が発生したと推定されている。地震調査研究推進本部はこの津波堆積物や地殻変動から、この津波の波源を千島海溝プレート境界で発生したMw 9前後の地震と推定し、この地震・津波イベントを17世紀型の地震とした[5]

調査開始初期は、津波堆積物の堆積間隔や地殻変動から活動間隔は300年から600年とされており、2005年には中央防災会議がその平均から「500年間隔地震」と命名し、対策を始めた[6]。しかし、精度の高い年代測定を実施した結果、津波堆積物の堆積間隔は平均500年間隔ではなく、100年から800年程度の非周期的なバラツキがあり、平均発生間隔は400年程度と求められた[7]

17世紀型地震による津波(痕跡)分布を説明できる断層モデルはMw 8.5[8]または8.6[9]慶長三陸地震津波と17世紀地震津波が同一であった場合はMw 8.9以上のプレート間地震が想定されている。
痕跡の発見

北海道東部沿岸や南千島には、メナシクルと呼ばれるアイヌ民族集団が居住していたが、文字文化を持っていなかったため、この地域の大地震が歴史記録に残るのは和人による支配が進んだ19世紀以降となる。一方地質調査から、更新世後期に形成された海岸段丘が広く分布しており、10万年スケールでは隆起する傾向にあると推定されている。しかし、平時は年間 1cm 近い速度で沈降しており、これまで歴史記録も含め、地震で隆起した事実はない。むしろ地震時にはわずかに沈降しており、余効変動での若干の隆起を除けば、ずっと沈み続けていることになる。この長期的スケールと短期的スケールの矛盾は超巨大地震による隆起イベントによって解消される可能性が指摘された[10][11]。その後に行った沿岸の堆積物調査で、後述の17世紀の津波堆積物と17 世紀の指標テフラを含む泥炭層との間に海成の粘土層が挟まれていることを発見し、それらの珪藻分析に基づいて、隆起が地震後数十年かけてゆっくりと生じたことを明らかにした。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:98 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef