十勝岩 豊(とかちいわ ゆたか、1919年1月10日 - 1979年2月12日)は、北海道十勝郡大津村(現在の広尾郡大樹町)出身(出生地は北海道中川郡本別村(現在の足寄郡陸別町))で二所ノ関部屋(一時期二子山部屋)に所属した大相撲力士。本名は三好 豊(みよし ゆたか)。現役時代の体格は176cm、105kg。得意手は左四つ、寄り、吊り。最高位は西前頭筆頭(1945年6月場所)[1]。 全国青年学校相撲大会の北海道代表選手として活躍し、1938年(昭和13年)7月、二所ノ関部屋へ19歳を過ぎて入門した。初土俵は翌1940年(昭和14年)1月場所。序ノ口、序二段で連続優勝、幕下まで各1場所で通過し幕下もわずか3場所で通過して、1943年(昭和18年)1月場所で十両昇進した。この頃には“羽黒山二世”と呼ばれ、1944年(昭和19年)5月場所にて新入幕を果たし、将来を大きく嘱望された[1]。 左四つからの寄り、腕力にまかせて吊りを得意とした。だが、膝の負傷と神経痛のために三役には昇進できずに終わり、1951年(昭和26年)5月場所限りで引退した[1]。四股名は出身地の「十勝郡」に因み、初土俵から引退するまで四股名を変えることはなかった。 引退後は年寄・湊川を襲名して二所ノ関部屋から分家独立、湊川部屋を興して幕内・大龍などを育てたが、部屋別総当たり制を機に1964年(昭和39年)11月場所限りで部屋を閉じ、二所ノ関部屋の部屋付き親方となった。 1975年(昭和50年)に二所ノ関親方(元大関・佐賀ノ花)が亡くなり、分家独立していた元横綱・大鵬と部屋付き親方の押尾川親方(元大関・大麒麟)による後継者争いが決まらなかったため、二所ノ関一門の最長老として元・十勝岩の湊川が暫定的に二所ノ関を引き継ぎ、約10年ぶりに部屋師匠に就いた。 1979年(昭和54年)2月12日、癌性胸膜炎のため東京都済生会中央病院で死去。60歳没[2]。 十勝岩 豊 春場所 夏場所 秋場所
来歴・人物
当初は一定期間で後継者は決まると思われていたが、先代未亡人が部屋の関脇・金剛に部屋を継がせたかったために後継者争いが長期化し、1年4ヵ月後にようやく決着し、二所ノ関部屋の部屋付きとして元の湊川に戻った。
主な成績・記録
幕内在位:17場所
幕内成績:91勝103敗17休 勝率.469
現役在位:28場所
通算成績:156勝131敗17休 勝率.544
各段優勝
序二段優勝:1回(1940年5月場所)
序ノ口優勝:1回(1940年1月場所)
場所別成績
1939年
(昭和14年) (前相撲) (前相撲) x
1940年
(昭和15年) 西序ノ口24枚目
優勝
7–1 東序二段27枚目
優勝
8–0 x
1941年
(昭和16年) 東三段目5枚目
7–1 西幕下24枚目
4–4 x
1942年
(昭和17年) 西幕下21枚目
6–2 西幕下3枚目
6–2 x
1943年
(昭和18年) 西十両10枚目
7–8 西十両13枚目
10–5 x
1944年
(昭和19年) 東十両4枚目
10–5 東前頭17枚目
6–4 東前頭6枚目
5–5
1945年
(昭和20年) x 西前頭筆頭
1–5–1 西前頭10枚目
2–3–5
1946年
(昭和21年) x x 西前頭16枚目
7–6
1947年
(昭和22年) x 東前頭11枚目
7–3 東前頭7枚目
4–7
1948年
(昭和23年) x 東前頭11枚目
9–2 西前頭3枚目
3–8
1949年
(昭和24年) 西前頭9枚目
9–4 西前頭4枚目
8–7 東前頭2枚目
6–9
1950年
(昭和25年) 西前頭6枚目
7–8 西前頭7枚目
7–8 東前頭9枚目
7–8
1951年
(昭和26年) 東前頭10枚目
3–12 東前頭17枚目
引退
0–4–11 x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星
番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)
年寄変遷
湊川 豊(みなとがわ ゆたか)1951年5月-1975年4月
二所ノ関 豊(にしょのせき -)1975年4月-1976年9月
湊川 豊(みなとがわ -)1976年9月-1979年2月(死去)
脚注^ a b c ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p35
^ 訃報欄 湊川豊『朝日新聞』1979年(昭和54年)2月13日朝刊 13版 23面
関連項目
大相撲力士一覧