十人委員会(じゅうにんいいんかい、ヴェネツィア語: Consejo dei Diexe、イタリア語: Consiglio dei Dieci コンシリオ・ディ・ディエーチ[1])とは、1310年から1797年に存在したヴェネツィア共和国の統治機構[2]。 Consiglio dei X、CDX[3]、i Dieci[4]などとも呼ばれ、十人評議会や十人会[5]などとも訳される。 十人委員会は1310年に当時のドージェであるピエトロ・グラデニーゴによって組織された[6]。これは、同年6月にバイヤモンテ・ティエポロ こうした権限の拡大は、経済的に困窮した貴族の派閥「青年派(Giovani)」と、有力貴族の派閥である「老人派(Vecchi)」との対立の過程でもあった[12]。即ち、十人委員会等の要職を寡頭で支配している老人派が委員会の権力拡大を望み、大評議会などには議席を持つもののドージェや十人委員会などの要職を得る事が難しい青年派は自分たちの権限が老人派によって奪われる事を拒絶したのである。この対立は、1582年に始まる十人委員会の改革にも繋がっていく。 1582年の昇天日、リード・ディ・ヴェネツィアで数人の若い貴族と"Bravi 1582年の改革により権限が縮小されたとはいえ、十人委員会はその後も共和国の国政を担う機関として機能し続けた。だが1797年5月、ナポレオン・ボナパルトの脅威に晒されたヴェネツィアが大評議会にて共和国そのものの幕を閉じる決議を採択すると同時に、十人委員会もその長い歴史の幕を閉じることとなった。 1468年の法令では、反乱・陰謀や国家の平和を乱すあらゆる行為などの他、ソドミーに関する裁判、スクオーラ・グランデ 一時は国政を司るかのような強大な影響力を有した十人委員会だが、1582年の改革を機にその権限は大幅に縮小されることとなる。一旦、ゾンタにも正規委員と同様の再任禁止期間を設ける事が決定されたが、最終的にはゾンタそのものが廃止された[25]。更に11月4日には水域専門官(savi alle acque)や穀物専門官(savii sopara le ague)の任命権が元老院に移行された[26]。また、1583年3月3日には造幣局の統制権が元老院にある事が確認された[27]。 十人委員会は毎週水曜日に定例審議を行うとされ、何らかの事情で定例審議が開催できなかった場合でも最低週一回は審議を持つこととされた[28]。
歴史
設立の経緯
「老人派」と「青年派」
1582年の改革
この改革は老人派の拠点となっていた十人委員会の権限を制限し、政府内での青年派の優位を確立するためのものであったと言われる[16]。
終焉
職掌
更には、海上都市であるヴェネツィアにとってその存亡に直結する運河の管理を担当する水域専門官(savi alle acque)の任命権、本島の土壌が農耕に適さない為に要職とされる穀物専門官(savii sopara le ague)の任命権、国際通貨としてヨーロッパ各地やイスラム圏でも国際的な決算手段として用いられていた[21]ドゥカートを造幣する造幣局の統制権も獲得した[22]。これらは元来元老院
権限縮小
審議