十五年戦争
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十五年戦争(じゅうごねんせんそう)とは、1931年9月18日の柳条湖事件勃発から1945年ポツダム宣言受諾(日本の降伏)までの足掛け15年(実質13年11カ月[1])にわたる日本の対外戦争、満洲事変日中戦争太平洋戦争の全期間を一括する呼称のこと[2]。中国では田中上奏文が史実の公式文書として扱われているので「十四年抗戦」の呼称が使われる[3]
概要

「十五年戦争」の呼称は、鶴見俊輔1956年に「知識人戦争責任」(『中央公論』1956年1月号)のなかで使用したのが最初とされ、昭和40年以降、一部で使用されるようになり[2]、1980年代に江口圭一が広めるのに大きな役割を果たした[4]。その後、昭和50年代頃からアジア・太平洋戦争の名称の使用が増加した[2]
段階

鶴見俊輔は、1. 満洲事変:1931年9月18日 ?、2. 日中戦争:1937年7月7日 ?、3. 太平洋戦争:1941年12月8日 ?、の三段階に分けている。

江口圭一は、著書『十五年戦争小史』で、「十五年戦争」の第一段階を1931年9月18日以降の柳条湖事件を発端とする満洲事変、第二段階を1937年7月7日の盧溝橋事件を発端とする日中戦争または日中全面戦争、第三段階を1941年12月8日の真珠湾攻撃マレー作戦を発端とするアジア・太平洋戦争とし、さらに第一段階を1933年5月31日の塘沽停戦協定を境に狭義の満洲事変と華北分離という二つの小段階に区分している[5]。また、満洲事変からアジア・太平洋戦争下の中国戦線を含む「広義の」日中戦争と盧溝橋事件からアジア・太平洋戦争開始までの「狭義の」日中戦争とに言及している[5]
反論、異論、評価

日本の対外膨張戦略の連続性を重視する歴史認識に基づく名称[6]であるが、この連続史観への反論もあり[2]、満洲事変から盧溝橋事件までの4年間は大規模な軍事行動が行われていないことや、満洲事変はそれまでのヴェルサイユ体制の終わりであって、満洲事変?日中戦争?太平洋戦争を一体のものとみなすことには批判もある[7][8]。また、正味13年11か月を15年とすることへの異論もある[2]

このほか、ペリー来航から大東亜戦争(太平洋戦争)までをアジアに侵略してきた白人勢力に対する日本の反撃として一体のものとする林房雄の「東亜百年戦争」[9]日清戦争から太平洋戦争までを一体のものとする本多勝一の「50年戦争」[10][11]といった見解・呼称があり、猪木正道は、近代化に成功した日本が軍国主義化をすすめた展開を日清戦争から日中戦争までとみなしている[12]。江口圭一は、日露戦争から太平洋戦争直前までの期間を、1. 日露戦争から第一次世界大戦まで(1905-1918年)の14年間、2. 1919-1931年の満洲事変までの12年間、3. 1931年の満洲事変開始から1941年の対英米戦争までの11年間、の三つの時期に区分している[13]
脚注
注釈[脚注の使い方]
出典^ 歴史教育者協議会編『ちゃんと知りたい!日本の戦争ハンドブック』青木書店、2006年8月、ISBN 4-250-20621-1、115頁。
^ a b c d e 「大東亜戦争」秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 [第2版]』東京大学出版会、2005年8月15日 第2版第1刷、ISBN 4-13-030135-7、750頁。
^ 赫海威2017年1月12日 (2017年1月12日). “中國修改教科書,「八年抗戰」變「十四年抗戰」” (中国語). 紐約時報中文網. 2021年4月20日閲覧。
^ 安井三吉「「十五年戦争」と「アジア・太平洋戦争」の呼称の創出とその展開について」『現代中国研究』第37号、中国現代史研究会、2016年5月12日、81?99頁。
^ a b 江口圭一『十五年戦争小史』青木書店、1991年5月25日 第2版第1刷発行、ISBN 4-250-91009-1、11?14頁。
^ 山田朗「十五年戦争」『日本歴史大事典―2 こ?て』小学館、2000年10月20日 初版第1刷発行、ISBN 4-09-52300-29、451頁。


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