十二時辰
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十二時辰の一覧 (注:初刻、正刻、終の時刻表記は定時法での24時間記法のもの。)十二支名読み初刻正刻終正刻の鐘[注 1]
字夜半やはん23時00時01時夜/暁九つ
字鶏鳴けいめい01時02時03時夜/暁八つ
字平旦へいたん03時04時05時暁七つ
日出にっしゅつ05時06時[注 2]07時明六つ
字食時しょくじ07時08時09時朝五つ
字隅中ぐうちゅう09時10時11時朝/昼四つ
字日中にっちゅう11時12時13時昼九つ
字日?にってつ13時14時15時昼八つ
字?時ほじ15時16時17時昼/夕七つ
日入にちにゅう17時18時[注 3]19時暮六つ
黄昏こうこん19時20時21時宵/夜五つ
字人定にんじょう21時22時23時夜四つ

じしん
時辰
shichen
時間
SI2時間
定義1日の1/12
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十二時辰(じゅうにじしん)とは、近代以前の中国や日本などで用いられた、1をおよそ2時間ずつの12の時辰(じしん)に分ける時法である。“およそ2時間”とあるのは、後述の通り夜と昼、季節で長さが変動するからである。

十二辰刻(じゅうにしんこく)・十二刻(じゅうにこく)・十二時(じゅうにじ)とも呼ぶ。時辰・辰刻・・時は、いずれも本来は単に時間時刻という意味の言葉だが、十二時辰制のもとでは1日を12に分けたそれぞれのおよそ2時間を意味し、刻・時はまた任意の2時間を表す単位としても使われる(ただし他の長さを表すこともある。刻は1日を48に分けたおよそ30など、時は1日を24に分けたおよそ1時間も意味する)。

12の時辰を右表に示す。時刻は定時法の場合で、不定時法では季節によりやや変動する。
それぞれの呼び名
十二支

十二時辰のそれぞれには「夜半」等の名があるが、十二支)でも呼ばれる。その場合、漢語では「子時(しじ)」などと呼ぶが、日本では「子の刻(ねのこく)」「子字」[1]などと呼ぶのが普通である。

十二時辰の名称は『書経』や『詩経』といった古書に散見されるが、十二にまとめられたものは『春秋左氏伝』昭公5年「故有十時」に対する杜預の注釈において見られる。始分一日為十二時、其名目但曰夜半、曰鶏鳴、曰平旦、曰日出、曰食時、曰隅中、曰日中、曰日?、曰?時、曰日入、曰黄昏、曰人定、未借及十二支也、今恒言猶或兼之、曰、夜半子時、鶏鳴丑時、日出卯時、日没酉時、黄昏戌時、人定亥時、略得古之遺。 ? 『春秋左氏伝杜預注(  (中国語) 通俗編, ウィキソースより閲覧。 )

その名称のうち太陽の位置に関すると考えられるものは日出・隅中・日中・日?・日入である。日の出日の入り南中する時間が中心であり、隅中は太陽が東南隅を過ぎて日中に近づいた時間であるといわれ、日?は太陽が西へ傾くことを意味するとされる。また空の明るさに関するものが平旦と黄昏と考えられ、日の出前あるいは日の入り後のいわゆる薄明の時間帯に由来する。

一方、古代中国人の食事の時間帯に由来するのが食時と?時で、古人は1日2度の食事を日の出後と日の入り前にとったとされる。

またその他に鶏鳴は文字通り鶏が鳴く時間帯に、人定は人が寝静まった時間帯に由来すると考えられる。
時刻との対応

各時辰のおよそ2時間の始まる時刻を初刻(しょこく)、中間を正刻(せいこく)と呼ぶ。1日の始まりの0時は、十二支の第1である子の正刻となる。つまり、1時間早い23時が子の初刻で、子の刻の始まりである。子の正刻つまり0時を正子、午の正刻つまり12時を正午と呼ぶ。

日本では各正刻にを鳴らした。その回数は、正子・正午には9回で、それから時辰ごとに1回ずつ減る。そのことから、子の正刻から順に「九つ」「八つ」……と呼んだ。

時報を「9」回の鳴鐘から始めるのは、陰陽師が暦とともに時間も管理していたことに由来する。陰陽道では奇数を縁起のよいの数とし、その極値が9であることによる。以降、次の時辰は本来の考え方では、9を2つ重ねて18、さらに次は3つ重ねて27とするが、これでは数が大きすぎるため、鳴鐘は十の桁を省略して8、7としている。この方法は古来から続いており、現代でもこのシステムが一部の寺院などで使用されている。それゆえ結果的に鳴鐘は9から1つずつ減っていくように見える形となっている。

2時間おきでは不便なため、半刻後を、丑の初刻から順に「九つ半」「八つ半」……と呼んだ。いずれも、12時間後に同じ呼び名の時刻が来るため、区別するためには「夜九つ」「昼九つ」などと呼んだ。「おやつ」の語源の「八つ」は不定時法下では変動するが、およそ14時である。
時辰の長さ

室町時代から江戸時代までの日本では、不定時法が主流だった。貞観4年(862年)に日本に導入された宣明暦では、不定時法では常に、日の出は卯の正刻、日没は酉の正刻とした。平安時代以降長らく宣明暦が使用されていたが、江戸時代貞享元年(1684年)に導入された貞享暦からは、昼の時間は日の出から日没ではなく、これに前後の薄明を加えたものとなった。すなわち、日の出の2刻半[注 4]前が夜明けであり1日の始まりとして卯の正刻、日の入り2刻半後が日暮れとして酉の正刻とされるようになった[2]

このため、夏場は日の出が早く日没が遅くなり、逆に冬場は日の出が遅く日没が早くなることから、昼夜それぞれを6等分した時辰の長さ、つまり昼の1刻間と夜の1刻間は同じ長さにはならず、冬の昼間や夏の夜間は短くなり、冬の夜間や夏の昼間は長くなる。これを平均して2時間である。したがって正子・正午以外の時刻も季節により変動した[注 5]

寛政暦では、夜明けと日暮れ時は、太陽の中心の地平線に対する伏角が7°21′40″となる時刻であるとされる。これは、球面三角法を使用した計算で京都での春分秋分の日における日の出前・日没後2刻半の太陽の位置を求めた結果に基づくものであることが、後の明治時代以降に判明した[2]。この場合、夜明けと日暮れの長さは緯度・季節によって異なるが、京都のみならず江戸においても約36分前後となる。理科年表には、視太陽の中心の伏角が7°21′40″となる時刻を夜明、日暮として旧東京天文台における夜明・日出・日入・日暮の時刻が記されている[3]
方位との関係

正子の太陽方位つまり十二方位の子(し)、正午の太陽の方位はつまり十二方位の午(ご)である。地球上の南北線を子午線(しごせん)と呼ぶのは、このためである。同様に、東の方位は「(ぼう)」、西の方位は「(ゆう)」であるので、東西線を「卯酉線(ぼうゆうせん)」と言う。これらの関係は、他の正刻については正確ではないが大まかには成り立つ。
時辰の細分
2小時

代以降になると西洋の24時間制が入り、時辰も2分されて1時間に相当する小時(小時辰の略)も用いられるようになった。これにより時刻も、初刻から1時間の初と、正刻から1時間の正に分けられ、例えば子の刻であれば、23時から0時までが子初、0時から1時までが子正とされた。

日本語では、時辰の半分に当たる時間を半刻(はんとき)と呼んだ。
3刻

時辰を40分ごとの3刻に分ける。この3刻を早い順に上刻、中刻、下刻という。

例えば、子の刻ならそれぞれを「子の上刻」「子の中刻」「子の下刻」と呼ぶ。

ただし、期間のことではなく、それぞれ時辰の始まり・中間・最後である、つまり、上刻は初刻、中刻は正刻、下刻は次の初刻のことだとの説もある。
4刻

時辰を30分ごとの4刻に分ける。子の刻ならそれぞれを「子一つ」「子二つ」「子三つ」「子四つ」と呼ぶ。「草木も眠る丑三つ時(丑三つ刻)」の成句で知られる「丑三つ」は2時から2時30分である(不定時法のため少し変動する)。

日本語では、時辰の4分の1に当たる時間を四半刻(しはんとき)と呼び、これは江戸時代には日常的に用いられる時間の最小単位であった(天文学などの専門分野では更に細かい単位も用いられたが)。
補註^ 時間帯を表す明・朝・昼・夕・暮・宵・夜・暁などの語は、時間により2通りあるものもあり、それは斜線で区切って示した。
^ 24時間記法の6時ではなく、宣明暦では日の出の時刻。貞享暦以降は日の出2刻半(36分)前の夜明け。したがって冬は遅くなり、夏は早くなる。
^ 24時間記法の18時ではなく、宣明暦では日没の時刻。貞享暦以降は日没2刻半(36分)後の日暮れ。したがって冬は早くなり、夏は遅くなる。
^ ここでいう1刻は十二時辰ではなく、1日を100等分したものであり、1刻 = 14分24秒。


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