匝瑳郡
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千葉県海上郡の位置(水色・薄水色:後に他郡から編入した区域 薄水色・薄黄:後に他郡に編入された区域)

匝瑳郡(そうさぐん)は、千葉県下総国)にあった令制国成立以前からの郡とされるが[1]平安時代末には荘園に分割されるなどの変遷を経て、その後再発足、平成の大合併で消滅した。

海上郡と合わせた地域が海匝と呼ばれ、香取郡も合わせて香取海匝と呼ばれる場合がある。
郡名の由来

元々の読みは「さふさ」であり、「さ」は「狭(=美しい)」、「ふさ」は「布佐(=麻)」の意で、「美しい麻のとれる土地」とする説や、「さ」は接頭語で、「ふさ」は下総国最大の郡であることに由来する、という説がある。「匝瑳」は、読みの「さふさ」に好字を充てたものと考えられている[1]
古代

続日本後紀』に、「昔、物部小事大連、節を天朝に錫し、出でて坂東を征す。凱歌帰報。この功勳に籍りて下総国に始めて匝瑳郡を建て、仍て以て氏となすことを得しむ。是れ即ち熊猪等の祖なり。」[2]とあり、 物部小事坂東を征した功勳により建郡されたといわれている。香取郡を挟んだ常陸国信太郡とともに物部氏との深い関係が伝えられる。なお、香取神宮の摂社匝瑳神社があり、この摂社の造り替えは、古くは当郡の役であったともされる。現在の匝瑳市生尾には式内社老尾神社があり、老尾神社の祀官は香取氏で、私穀を陸奥国鎮所に献じた功績により従五位下を授けられた香取連五百嶋は当郡に居住したとも、あるいは年老いて大禰宜を辞した後当郡に引退したともされ、香取郡や香取神宮との関係が伝えられ、香取神宮と物部氏との関係も説かれる[3]

平安時代には小事の子孫を称する物部匝瑳氏が代々鎮守将軍に任ぜられ、当郡や常陸国信太郡の他印旛郡にも物部氏の勢力が及んでいることが知られている[4]物部匝瑳足継弘仁3年(812年)2月に鎮守将軍に任ぜられ、物部匝瑳熊猪承和元年(834年)5月に鎮守将軍に任ぜられた。この時まで物部匝瑳氏の本貫は当郡であったが、承和2年(835年)3月に至り、宿禰の姓を賜るととも本貫を左京二条に移した[5]

隣り合う香取郡は神郡であり、古代の郡域は近世以降と大きく異なっていた。『和名類聚抄』によれば18郷の大群であり、海上郡や香取郡の一部も含んでいた[5]

和名類聚抄』に記される郡内の(18郷)。野田・長尾・辛川・千俣・山上・幡間・石室・匝瑳・須賀・大田・日部・玉作・田部・球浦・原・栗原・茨城・中村
式内社

延喜式神名帳に記される郡内の式内社

神名帳比定社集成
社名読み格付記社名所在地備考
匝瑳郡 1座(小)
老尾神社オイヲノ小老尾神社千葉県匝瑳市生尾

中世

平安時代末には当郡を分割して、匝瑳北条荘匝瑳南条荘千田荘・玉造荘が立荘され、北部の匝瑳北条荘や千田荘は為光流藤原氏が、南部の匝瑳南条荘は上総氏系の匝瑳氏がそれぞれ勢力を有した。しかし治承4年(1180年)の結城浜の戦い皇嘉門院判官代藤原親政源頼朝に呼応した千葉常胤に敗れたため相次いで没落、千田荘には千田氏、匝瑳北条荘には飯高氏、匝瑳南条荘には椎名氏など千葉氏一族が蟠踞した[5]

建長年間(1249年-1256年)匝瑳北条荘や匝瑳南条荘では浄土宗鎮西派の然阿良忠が積極的に教学活動を展開しており、その外護者として、鏑木九郎胤定や椎名八郎胤光が知られる。嘉暦3年(1328年)以降、金沢称名寺湛睿が千田荘の土橋東禅寺に長老として住み、戒律・華厳を講じて民衆の崇敬を集めた。元徳3年(1331年)、千葉胤貞猶子日祐に諸所の堂職・免田を譲与したが、それ以降千田荘内に日蓮宗の教線が拡大された[6]

建武年間(1334年-1336年)には、北朝方の千葉胤貞と南朝方の千葉貞胤が千田荘で合戦、戦乱は当郡全域に及んだ。享徳4年(1455年)3月の千葉家内紛の際、千葉城を逃れた千葉胤直胤宣父子は、千田荘の多古城志摩城に拠って防戦したが、同年8月東禅寺の土橋如来堂で自害して果て、千葉氏系武士団の総領支配体制は崩壊した[6]

天正年間(1573年-1593年)に開檀した飯高檀林は、日本最古の大学といわれ多くの名僧知識を輩出したが明治維新後廃檀、その使命を立正大学に委ねた[7]
近世

天正18年(1590年)の徳川家康関東移封にともない、郡北部の多古には保科正光、南東部の小笹郷には本多康俊が入部した[6]江戸時代初期に郡の再編成が行われ、東部は海上郡、北部は香取郡に移され郡域が縮小した。当郡は諸藩領の他、幕府領旗本領・与力給知が混在し、その占める割合も高い。寛文年間(1661年-1673年)には匝瑳・海上・香取の3郡にまたがる椿海干拓された[5]
近代

明治元年(1868年)に、松山村で水戸藩最後の内部抗争である松山戦争があった[6]
幕末以降

旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での当郡域の支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地が存在。(68村)
幕末の知行

知行村数村名
天領幕府領2村両国新田、新町村
旗本領32村上原村、宮川村、野手村、吉崎村、登戸村、東小笹村、荻野村、東谷村、上谷中村、時曽根村、○母子村、虫生村、富下村、傍示戸村、新村、飯倉村、田久保村、亀崎村、久方村、木積村、宮本村、生尾村、山桑村、●松山村、中台村、富岡村、長岡村、大浦村、大塚原村、●井戸野村、泉川村、川口村
旗本領・与力給知1村原方村
幕府領・旗本領14村栢田村、新堀村、川辺村、今泉村、長谷村、蕪里村、芝崎村、貝塚村、●米倉村、○八日市場村、富谷村、籠部田村、川向村、駒込村
藩領下総佐倉藩1村木戸村
上野安中藩1村目篠村
天領・藩領幕府領・安中藩3村尾垂村、春海村、谷中村
幕府領・三河西端藩2村堀川村[注 1]、高村
幕府領・下総生実藩1村惣領村


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