「北陸鉄道金石線」とは異なります。
金名線
概要
現況廃止
起終点起点:白山下駅
終点:加賀一の宮駅
駅数14駅
運営
開業1926年2月1日 (1926-02-01)
廃止1987年4月29日 (1987-4-29)
所有者金名鉄道→北陸鉄道
使用車両北陸鉄道石川線#車両を参照
路線諸元
路線総延長16.8 km (10.4 mi)
軌間1,067 mm (3 ft 6 in)
電化直流600 V 架空電車線方式
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停車場・施設・接続路線(廃止当時)
凡例
能美線 -1980
中鶴来駅 2009年廃止
0.0加賀一の宮駅 2009年廃止
2.7手取中島駅
3.0広瀬駅
4.5瀬木野駅
5.0服部駅
5.8加賀河合駅
6.6大日川駅
7.4下野駅
8.5手取温泉駅
9.6釜清水駅
12.5下吉谷駅
14.1西佐良駅
15.3三ツ屋野駅
16.8白山下駅
鉄道敷設法建設予定線第74号(未着工)
樽見駅
北陸鉄道金名線の一部だった手取川橋梁は、廃線後に同じ場所で架け替えられ自転車専用橋の金名橋となっている。
金名線(きんめいせん)は、現在の石川県白山市南部を通り、旧石川郡鶴来町の加賀一の宮駅から旧鳥越村の白山下駅までを結んでいた北陸鉄道の鉄道路線。1984年休止、1987年廃止。 金名鉄道
路線データ
路線距離(営業キロ):16.8km
軌間:1067mm
駅数:14駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線(直流600V)
歴史
種類株式会社
本社所在地 日本
石川県石川郡鶴来町ヲ45[1]
設立1925年(大正14年)12月25日[1]
業種鉄軌道業
事業内容旅客鉄道事業、旅館業、自動車運輸 他[1]
代表者社長 小堀定信
資本金650,000円(払込額)[1]
特記事項:上記データは1943年(昭和18年)4月1日現在[1]。
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開業当時は軽便鉄道で、沿線住民からは「ポッポ汽車」と呼ばれ親しまれた[2]。1931年(昭和6年)にガソリンカーを導入し、1949年(昭和24年)に電化した。
両白山地を越えて金沢と名古屋を結ぼうという壮大な構想をもとに建設され、建設・開業時の運営会社名や路線名は金沢の「金」と名古屋の「名」を合わせて付けられた[2]。ただし、構想では、現在の白山白川郷ホワイトロードと同様のコースを通って岐阜県に入り、白鳥村で当時建設が進められていた越美南線に接続するものとし、名古屋まで自社の路線を建設するものではなかった[3]。また、名古屋方面への延伸には莫大な建設費用がかかることもネックになっていた[2]。
沿線で運送業を経営していた小堀定信(1888 - 1964)の出資により1925年(大正14年)に金名鉄道が設立され、資金切れになっても鶴来や金沢からの協力者が現れることを期待して白山下側から着工し1926年に開業した。そのため廃止されるまで正式な起点は白山下駅だった。小堀定信は金名鉄道の建設に多額の資金を投入し、一時破産直前にまで追い込まれた。負債圧縮のため、開業して間もなく鶴来 - 神社前2.0kmを金沢電気軌道に売却している。なお、この区間は北陸鉄道石川線の一部(鶴来 - 加賀一の宮)として存続していたが、2009年(平成21年)11月1日付で廃線となった。
金沢へは北陸鉄道石川線の前身である金沢電気軌道と接続することで到達できたが、白鳥および名古屋方面へは多額の建設費を要することから免許申請が却下され[4]、白山下駅より先に延伸することができなかった。
その後、戦時統合により北陸鉄道の金名線となる。しかし、沿線の過疎化や並行道路の整備が進み1970年代以降利用者が減少した。1970年(昭和45年)4月1日からは昼間の運行を中止しバスで代替していた。昭和45年度の輸送人員が55万1000人だったものが昭和58年度には21万3000人まで減少していき恒常的な赤字路線となっていた。1983年(昭和58年)10月31日、豪雨により大日川 - 下野間の大日川橋梁の橋脚周囲の岩盤が崩壊し、大日川 - 白山下間の運行を休止しバス代行になった。1984年(昭和59年)3月11日に復旧したが、同年12月12日[5]@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}朝の運行開始前の点検で[要出典]手取中島 - 広瀬間の手取川橋梁の橋台を支持する岩盤が風化しておりさらに橋台水中部の洗堀による浸食が激しく危険な状態となっていることが判明し、その日の始発より全線で運休、全面バス代行となった。