「北陸電力送配電」とは異なります。
北陸配電株式会社本店を置いていた富山電気ビルデイング
種類株式会社
本店所在地 富山県富山市桜橋通り3番1号
設立1942年(昭和17年)4月1日
解散1951年(昭和26年)5月1日
業種電気
事業内容電気供給事業
歴代社長山田昌作
北陸配電株式会社(ほくりくはいでん かぶしきがいしゃ)は、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)から戦後の1951年(昭和26年)にかけて、北陸3県を配電区域として営業していた電力会社である。配電統制令に基づき日本全国に設立された配電会社9社のうちの一つで、北陸電力の前身にあたる。
本店は富山市。1942年4月に北陸3県(ただし福井県若狭地方を除く)の主要電気事業を統合して設立され、翌年3月までに管轄地域の配電事業をすべて吸収し、全国規模で発送電事業を統合した日本発送電と当該地域の電気事業を分掌した。1951年5月、電気事業再編成令の適用により解散し、その事業は日本発送電の一部事業とともに発送配電の一貫経営を担う北陸電力へと引き継がれた。
本項では、北陸配電に統合された事業者の一つで、民間事業者の自主統合によって1941年(昭和16年)に設立された北陸合同電気株式会社(ほくりくごうどうでんき)についてもあわせて記述する。 北陸配電株式会社は、「配電統制令」(昭和16年8月30日勅令第832号)に基づき設立され、配電事業の統制のため配電事業を経営した電力会社である[3]。全国に9社設立された同様の配電会社のうち[4]、北陸配電は富山県・石川県の全域と福井県のうち若狭地方(三方郡・遠敷郡・大飯郡)を除いた地域、それに岐阜県吉城郡坂下村(現・飛騨市の一部)を配電区域とした[5]。吉城郡神岡町を含まない点が後身北陸電力の供給区域と異なる[6]。 発足は1942年(昭和17年)4月1日[7][5]。設立の手続きとして、まず配電統制令公布・施行後の1941年(昭和16年)9月、配電統制令に基づく逓信大臣の北陸配電株式会社設立命令が北陸合同電気・日本電力・京都電灯と市営供給事業を営む金沢市を対象に下る[5]。うち北陸合同電気は直前の1941年8月に、日本海電気・高岡電灯など北陸3県の主要民間事業者12社の自主統合により新設された電力会社である[8]。これら4事業者により北陸配電の設立準備が進められ、翌1942年3月28日に富山電気ビルにて創立総会開催、4月1日4事業統合により北陸配電株式会社設立に至った[5]。本店は富山県富山市に置かれた[5]。 設立の時点においては、4事業の統合(第1次統合)を実施したのみで管轄地域の配電統制を全面的に実現したわけではなかった[5]。残存配電事業の統合(第2次統合)は1942年12月1日と翌1943年(昭和18年)3月1日の2度に分けて実施され、合計9の事業を統合した[5]。さらに1944年(昭和19年)1月1日付で2つの電気利用組合から自家用電気工作物施設を統合している(第3次統合)[5]。統合後の電力国家管理体制の下では、全国規模で事業を展開する日本発送電が発電・送電部門を分掌し[9]、北陸配電が地域内の配電部門を担当した[10]。ただし北陸配電が発送電部門を一切持たなかったわけではなく、日本発送電からの受電量より発電量が少ないものの自社発電所を持った[11]。 戦後の1950年(昭和25年)11月、電力国家管理体制の廃止と電気事業の再編成を目的とする「電気事業再編成令」(昭和25年11月24日政令第342号)が公布された[12]。同令により日本発送電と北陸配電を含む配電会社9社の解散が決定[12]。1951年(昭和26年)5月1日、電気事業再編成が実行に移され、北陸地方では北陸配電区域の全域と中部配電区域であった神岡町を供給区域とする北陸電力株式会社が発足し、北陸配電の全設備と日本発送電・中部配電の設備の各一部を継承した[6]。 日清戦争後の企業勃興期にあたる1899年(明治32年)4月2日、富山電灯(後の富山電気・日本海電気)により富山県富山市において電気事業が開業した[13]。次いで同年5月福井県福井市にて京都電灯福井支社が開業[14]、翌1900年(明治33年)6月には石川県金沢市にて金沢電気(後の金沢電気瓦斯)も開業する[15]。これら北陸3県の各県庁所在地に続き、1903年(明治36年)12月には富山県高岡市でも高岡電灯が開業している[13]。以上の早い段階で出現した4都市の電気事業のうち、福井市のみ社名の通り京都市の会社による事業であったが[14]、その他はそれぞれの地元資本の会社によって経営された[13][15]。
概要
前史
北陸3県における電気事業の発達北陸最初の電気事業用発電所である日本海電気大久保発電所(1932年)