北陸トンネル
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北陸トンネル敦賀側坑口
(坑口上部に「北陸隧道」とあり、すぐ左方には北陸トンネル列車火災事故の慰霊碑がある。)
概要
路線ハピラインふくい線
位置 日本福井県敦賀市 - 南条郡南越前町
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分12秒 東経136度7分57秒 / 北緯35.68667度 東経136.13250度 / 35.68667; 136.13250座標: 北緯35度41分12秒 東経136度7分57秒 / 北緯35.68667度 東経136.13250度 / 35.68667; 136.13250
現況供用中
起点福井県敦賀市深山寺
終点福井県南条郡南越前町新道
運用
建設開始1957年昭和32年)11月14日
開通1962年(昭和37年)6月10日
管理ハピラインふくい
技術情報
全長13,870 m[1]
軌道数2(複線
軌間1,067 mm
電化の有無有(交流20,000 V・60 Hz
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旧杉津駅付近(北陸道杉津PA)より
麓の杉津集落(写真中央部より左側の沿岸、その右側は横浜地区)と敦賀湾を望む

北陸トンネル(ほくりくトンネル)は、福井県敦賀市と同県南条郡南越前町にまたがる複線鉄道トンネルハピラインふくい線敦賀駅 - 南今庄駅間、木ノ芽峠の直下に位置する。総延長は13,870 mあり[1]1962年昭和37年)6月10日に開通した[2][3][4]

本項ではこのほか、並行する西日本旅客鉄道(JR西日本)北陸新幹線の新北陸トンネル(しんほくりくトンネル)についても記述する。
概要[ソースを編集]

日本のJR以外の私鉄第三セクター鉄道が保有する路線では最長のトンネルである。JR時代においても狭軌在来線では最長のトンネルであり、1972年(昭和47年)に山陽新幹線六甲トンネルが完成するまで、日本最長のトンネルであった。なお、狭軌の陸上鉄道トンネルとしては2021年時点でも日本最長である[注釈 1]

なお、2024年(令和6年)3月16日の北陸新幹線の開業に伴い、従前の北陸トンネルを含む敦賀駅以北の北陸本線は経営分離に伴い、施設の所有・維持管理はJR西日本からハピラインふくいに移管され[5][6]、同じく北陸本線からえちごトキめき鉄道に経営移管した頸城トンネル(長さ11,353 m)を抜いて、私鉄・第三セクター路線では日本最長のトンネルとなった。これによりJRの狭軌在来線では、上越線新清水トンネル(長さ13,490 m)、JR西日本管内の在来線では福塩線の八田原トンネル(長さ6,123 m)がそれぞれ最長となっている。
トンネル開通前[ソースを編集]

敦賀と今庄の間には鉢伏山海抜 762 m)[7]がそびえ、その鞍部である木ノ芽峠(海抜 628 m)は、古くから北陸道隘路であった。

北陸トンネル開通前の北陸本線敦賀駅 - 今庄駅間は、木ノ芽峠を避け、敦賀市の海岸部に近い杉津駅を経由する山中峠ルートを採っていた[4]。だがこの区間は、海岸の山麓を縫いながら4か所のスイッチバックを擁して25の急勾配を上り下りする厳しい条件の単線区間であった。途中には3か所の駅、3か所の信号場、12か所のトンネル[8]も存在し、列車の行き違いにも時間を要した。眺望こそ優れた区間であったが、速度や輸送力、列車本数(急勾配の単線区間であるゆえ、列車本数に限りがあった)の面で、木ノ本 - 敦賀間の旧線区間と同じく、重要幹線である北陸本線にとってのボトルネック(制限)となっていた。また、勾配の厳しさのみならず、地盤の脆弱さによるがけ崩れ、冬期には雪国特有の雪害にも悩まされていた。

補助機関車としてD51形蒸気機関車をつけての重連では 700 t 輸送が限界であったため、1955年(昭和30年)より(試作機的な)電気式ディーゼル機関車DD50形、当時最新鋭だった電気式ディーゼル機関車DF50形などが配属され、機関車三重連により 1000 t 輸送を始めた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}しかしそれでも貨物量の増加には対処しきれず、1956年(昭和31年)7月には金沢鉄道管理局管内での抑制列車は36本を数え、駅頭滞貨は 3万8000 t(対前年比 178 %)にも及んだ[要出典]。
トンネル工事[ソースを編集]

敦賀以南の改良(深坂トンネル開削、鳩原上りループ線構築、交流電化)に引き続く北陸線の抜本的な輸送改善を期し、戦前より様々な改良案が出されていた。

本格的に改良案の検討に着手したのは1952年以降で、国鉄金沢改良委員会を中心に検討が行われた。その際に出された改良案は、
在来線腹付け盤下げ複線化案(敦賀 - 新保 - 杉津 - 大桐 - 今庄)

南今庄(大桐付近に設置予定とされたもので、現在の南今庄駅とは異なる)より杉津海岸へトンネルで抜け、海岸沿いに敦賀までの単線を新たに敷設する新線案(敦賀 - 阿曽 - 杉津 - 南今庄(新大桐) - 今庄)

上述海岸線の改良版で、敦賀、杉津から武生までの複線化案(敦賀 - 杉津 - 武生)

今庄より中之郷までの直線トンネル複線化案(中ノ郷 - 今庄)

であったが、

1.は既存のルートを最大限に生かしスイッチバック解消のため路盤を下げ、勾配緩和工事を瑣末に行うものであったが、雪害・地崩れ対策に明るい解決策がない。

2.は戦前から有力であった海岸線の構想で、海岸沿いのルートを取ることによって雪害・地崩れ対策などには若干効果があるが、単線案のため、スピードアップなどの面においては在来線に変わるメリットがさほど見出せない。また、単線のため、新線を在来線と併設すると二重投資になる.

3.海岸線の改良複線化案であるが、この案でも武生 - 今庄 - 杉津間を存続させるかどうかが問題になる。

4.は明治初期より計画されていたもので、技術的にも最も好感を持たれていたが、敦賀を通らない案は容認されなかった。また、将来的に関西方面 - 米原 - 敦賀の湖東経由東海道線の輸送量がパンクした際に、湖西周りからのバイパス路線を接続しにくいこともネックであった(湖西線開通によりその意図は達成された)。

などを理由にいずれも却下された。

結局、スピードアップを最優先事項とし、今庄から敦賀まで1本のトンネルを掘ることになった。

1957年11月14日に着工した[8]。敦賀・今庄の両坑口のほか、中間2箇所からも立坑・斜坑を掘るという突貫工事で掘削が進められた。世界的にも注目され日本国外からの視察団もよく訪れた。期間中、新保駅のスイッチバック今庄方引き込み線が延長されて葉原斜坑への資材運搬拠点とされた。北陸トンネルのルートに当たる敦賀市葉原には作業員(とその家族)が多く住み、1959年の葉原小学校には229人もの児童が在籍した。断層や出水に悩まされたが1961年7月31日に貫通し[2][9][10]、翌1962年3月に完成した[1]


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