北部の蹂躙 (ほくぶのじゅうりん、英語: Harrying of the North) は、1069年から1070年の間の冬にイングランド王ウィリアム1世が行ったノーザン・イングランド(ノース)遠征。ウェセックス家最後の王位請求者エドガー・アシリングを支援するデーン人がヨークに上陸したため、ウィリアム1世はこれと戦い撃退した。しかし残存するアングロ・サクソン人の反乱諸侯が降伏しなかったので、ウィリアム1世はこの地域を徹底的に破壊したうえでノルマン人による封建体制を確立しようとした。
同時代の数々の年代記が、野蛮で大規模な破壊と略奪、虐殺、それに伴う広範な飢饉を記録している。現代にはこれをジェノサイドと認定している学者もいる一方で、当時のウィリアム1世に伝えられるほどの一大作戦を遂行できるほどの軍事力は無かったとして、年代記の記述を誇張または誤解に基づくものだと考えている者もいる。
背景デーンロウ(黄)
ノルマン・コンクエストの時代、現代のヨークシャー、ダラム、ノーサンバーランド、ランカシャー、カンバーランド(カンブリア北部)南部、ウェストモーランド(カンブリア南部)にあたる地域をまとめて「ノース」(the North)と呼んでいた[1]。ノースの住民はノース人(古スカンディナヴィア人)とアングロ・サクソン人が混合した文化を有しており、現代では彼らを指してアングロ・スカンディナヴィア人という語が用いられることもある。古英語を話す彼らは南イングランドの人々と意思疎通ができず、また貴族階層はデーンロウ時代からのデーン人にルーツを持つ者が主であった[2]。
さらに、イングランドの南北では、地形や交通網の未発達から、人々の交流自体が少なかった。ヨークと南部の間の交通には、もっぱら船が用いられた[3]。962年、イングランド王エドガーはデーンロウの伯に対し、忠誠を誓うことを条件に高度な自治を認めた。これ以降、イングランド王の権力はハンバー川以北では極めて弱いものとなった。こうして力を得たノーサンブリア伯は、ティーズ川からツイード川まで勢力を広げた[2]。ウィリアム1世
1066年、ヘイスティングズの戦いでハロルド2世が敗死し、王国がノルマン人の手に渡った後、これを認めないウェセックス家の支持者たちはエドワード懺悔王の大甥でエドマンド2世の孫にあたるエドガー・アシリングを抵抗運動の中心に据えた[4]。エドマンド2世はエドワード懺悔王の兄であった[4]。イングランド王国としてノルマン人への敗北を認めたのは、ヘイスティングズの戦いより2か月後の1066年12月に、エドガー・アシリングらがバーカムステッドでウィリアム1世に屈服したときである。とはいえ、エドガー・アシリングと共にノルマン人に服したのはヨーク大司教エールドレッドくらいで[5]、その後ウィリアム1世はドーバー、エクセター、ヘレフォード、ノッティンガム、ダラム、ヨーク、ピーターバラなど各地で数々の反乱や国境紛争に直面することになった[6]。エドガー・アシリングヨークのモット・アンド・ベーリー(1068年 - 1069年)の遺構
この頃、ノーサンブリアで力を持っていたのはコープスィという貴族だった。バーニシア王家の子孫である彼はかつてハロルド2世の弟であるトスティ・ゴドウィンソンを支持して1066年のスタンフォード・ブリッジの戦いに参加し、ハロルド2世に囚われていたのだが、直後のヘイスティングズの戦いでハロルド2世が死んだため逃げおおせていた。彼は1067年にバーキングでウィリアム1世に忠誠を誓い、ノーサンブリア伯に任じられていた[7]。
そのわずか5週後、コープスィはバーニシア伯エードルフ3世の息子オスルフに捕殺された。オスルフも同年の秋に暗殺され、従弟のゴスパトリックが跡を継いだ。彼の治世も、1068年に彼がエドガー・アシリングの反乱に加担したことで短期間に終わる運命にあった[7]。
2人の伯が立て続けに弑され、跡を継いだ伯が寝返ったのを見て、ウィリアム1世はノーサンブリアへの介入を決めた[8]。彼は1068年夏にヨークに入った。