きたみ れいこ
北見 禮子
1930年代のポートレート。
本名稲村 美津子 (いなむら みつこ、出生名・旧芸名)
林 美津 (はやし みつ、結婚後本名)
別名義稲村 美津子
生年月日 (1915-02-13) 1915年2月13日
没年月日2007年
出生地 日本 千葉県東葛飾郡野田町(現在の同県野田市)
職業女優
ジャンル劇映画(現代劇・時代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー)
活動期間1932年 - 1959年
配偶者林敏夫 (1941年 - 1945年、死別)
著名な家族林与一 (長男)
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北見 禮子(きたみ れいこ、1915年2月13日 - 2007年)は、日本の女優である[1][2][3][4][5][6]。新漢字表記北見 礼子、出生名・旧芸名稲村 美津子(いなむら みつこ)、結婚後本名林 美津(はやし みつ)[1]。夫は林敏夫、長男は林与一である[1][7]。 1915年(大正4年)2月13日、千葉県東葛飾郡野田町(現在の同県野田市)に生まれる[1]。 1932年(昭和7年)3月、野田町立野田高等女学校(現在の千葉県立野田高等学校)を卒業し、同年4月、東京・巣鴨の河合映画製作社に入社、同年6月10日に公開された吉村操監督の『大磯心中 天国に結ぶ恋
目次
1 人物・来歴
2 フィルモグラフィ
2.1 河合映画製作社
2.2 大都映画
2.3 松竹下加茂撮影所
2.4 東横映画
2.5 フリーランス
3 家族
4 脚注
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
人物・来歴
1936年(昭和11年)、京都の松竹下加茂撮影所に移籍する[1][2]。1941年(昭和16年)、同社を退社、同い年の俳優の林敏夫と結婚、1942年(昭和17年)2月14日には、長男の与一が誕生した[7][1][8][9]。林敏夫は、1944年(昭和19年)に召集を受けて出征し、1945年(昭和20年)8月13日に北満州(現在のロシア・沿海地方あたり)で戦死した(満30歳没)[7][1]。夫の死の2日後に第二次世界大戦は終結した。
1949年(昭和24年)、東横映画と契約して映画界に復帰、同年10月3日に公開された小杉勇監督の『花嫁と乱入者』に出演した[1][2][9]。翌1950年にはフリーランスになり、長谷川一夫の新演伎座製作、冬島泰三監督の『鬼あざみ』等に出演する[1][2]。1957年(昭和32年)には、長男の与一が初舞台を踏んだ[8][9]。1959年(昭和34年)5月19日に公開された深田金之助監督の『ふたり若獅子』を最後に引退した[1][2][6]。
2007年(平成19年)、死去した。満92歳没。 特筆以外すべてクレジットは「出演」である[2][3]。公開日の右側には役名[2][3]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[4][10]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 すべて製作は「河合映画製作社」、配給は「河合キネマ」であり、すべてサイレント映画である[2][3]。
フィルモグラフィ
河合映画製作社
『大磯心中 天国に結ぶ恋
『怪談両国花火供養
『奥様大福帖』 : 監督吉村操、1932年9月1日公開
『新聞記者』 : 監督根岸東一郎、1932年9月15日公開
『下宿屋の娘』 : 監督根岸東一郎、1932年10月20日公開 - 主演
『嘆きの青春』 : 監督吉村操、1932年11月17日公開 - 主演
『夜明けの路』 : 監督小沢得二、1932年12月1日公開
『謎の百万両 流星篇』 : 監督長尾史録、1932年12月31日公開 - 主演
『謎の百万両 台風篇』 : 監督石山稔、1933年1月5日公開 - 主演
『鉄路の縁』 : 監督小沢得二、1933年1月5日公開
『謎の百万両 完結篇』 : 監督根岸東一郎、1933年1月5日公開
『荊を踏む女』 : 監督小沢得二、1933年1月10日公開
『悲しき操』 : 監督小沢得二、1933年2月1日公開 - 主演
『自然の花』 : 監督小沢得二、1933年3月1日公開
『インフレ大尽』 : 監督小沢得二、1933年3月23日公開