北白川
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この項目では、京都府京都市の地域について説明しています。宮城県白石市白川津田字下谷地にある駅については「北白川駅」を、かつて存在した皇族については「北白川宮」をご覧ください。
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北白川(きたしらかわ)は、京都府京都市左京区の東部に存在する地域(広域地名)である。ここではおおよそ、左京区内の「北白川」を町名に冠する地区の総称として用いる。かつては志賀越道(山中越)の街道集落として栄え、明治時代からは白川水車を利用した工業も発達する。その他特産品としては花崗岩およびその加工物としての白川石白川砂が著名。またかつては花の栽培・行商も盛んであり、その行商人は「白川女」(しらかわめ)と呼ばれていた。現在は高級住宅地としての趣が強い。
概要

左京区の東に位置し、おおよそ東を東山、西を高原通、南を今出川通、北を東鞍馬口通に囲まれた一帯。西部は京都大学のある吉田および田中、南部は浄土寺、北部は一乗寺、東部は銀閣寺前町および銀閣寺町、さらに県境に位置するため、滋賀県大津市とも隣接する。また、厳密には南東部、大文字山(如意ヶ嶽)山中で鹿ヶ谷とも隣接している。かつての愛宕郡白川村である。

南部、西部は白川による「北白川扇状地」と呼ばれる谷口扇状地帯となっており、主に黒雲母花崗岩砂礫で形成されている。東山の西麓(京都側)では最も規模の大きな物であり[1]東大路通あたりまでが範囲に含まれる。また、追分町近辺は縄文時代には低湿地帯であったと推察されている[2][3]

地域の北東部は白川と京都府道・滋賀県道30号下鴨大津線志賀越道、山中越えなどと呼ばれる)に沿った山間部であるが、西部、南部は平坦な土地である。東山(特に比叡山、大文字山)の山裾に拡がる地域で、地域内に瓜生山(うりゅうざん、うりゅうやま。標高301m)と呼ばれる山が存在する[* 1]

そのほか「北白川山」[* 2]がある[* 3]

また、古くは(現)瓜生山の一部が「茶山」と呼ばれており、叡山電鉄の駅名にその名を残している[* 4]。大文字山 (466m)、如意ヶ嶽 (472m) との関わりも深い[* 5][4]

洛外平安京の外)であるため、照高院御殿跡の他には特に著名な史跡が多いというわけではないが、縄文時代遺跡石器縄文土器も見つかっており、居住地としての歴史は長い。また、京都盆地の東端に位置する郊外であり、1880年代ころは、四条や寺町京極へ出かけることを「京へ出る」と表現していた[5]

特産品として白川砂という、花崗岩質の白い砂があり、庭園など向けに使用されている。また、古くは「白川女」(しらかわめ)と呼ばれる、女性による花の行商の風土が存在した。

国勢調査を元とした推計によれば、その人口は2010年(平成22年)4月時点で、5,660世帯、10,270人とされている[6][* 6]

なお、地域の南西部の一部は京都大学の敷地内でもある。ただし、京都大学の所在地は北白川の西に隣接する「吉田」であり、その施設の多くは吉田に存在し、北白川に存在するものは極一部にとどまっている。学生の下宿などが点在。
沿革詳細は「白河 (洛外)」および「白川村 (京都府)」を参照

「北白川」の名称の由来は、「白河」の北に在ったことから[7]。『愛宕郡村志』に曰く、「白川とは渓谷の称なり、蓋し山谷花剛石多く其碎(砕)沙白くして美なるにより名つけし」(現代語訳は綱本逸雄 2013 『京都盆地の災害地名』p.40より引用)が白川の名称の由来。また、かつては鴨川以東の、北白川から九条辺りまで、かなりの広域が「白河」と呼ばれていた。文献に北白川との地名が出てくるのは藤原公任『拾遺抄』の「北白河の山庄に花のおもしろくさきて侍りける、見るとて人人まうできたりければ」(同じく綱本 2013 より引用)から。

古くは愛宕郡上粟田郷白川村と呼ばれ[8]天正時代(1573年 - 1593年)は稲作のほか、花売り、水車、石屋(石工)などの産業があった[* 7][9]。なお、1929年(昭和4年)からは左京区の大字[7]

比較的市街化の遅れた地域であったが[10]1918年の京都大学理学部の移転、1923年の農学部の設立を経て、1930年頃以降より住宅地としての発展を見[* 8][* 9][10]、京都の内でも高級住宅地とされる。1985年(昭和60年)の年齢別人口比の資料では、20代の人口が群を抜いて多くなっている[11]1918年(大正7年)に京都市上京区に編入、1929年(昭和4年)に新設された左京区に編入された[12]。ちなみに山間部に関しては、1990年(平成2年)の資料では各町1 - 4世帯、南ヶ原町や外山町は0世帯となっている[13]
河川
白川詳細は「白川 (淀川水系)」を参照地域の北東、山間部である地蔵谷町近辺を流れる白川。道路は志賀越道。身代わり不動尊。複数有るがこれは最も街道に近いもの。

地域内を、北東の山間部から南東部(浄土寺から岡崎)へ流れる一級河川。比叡山と大文字山(如意ヶ嶽)の間、東西約5km、南北5 - 7kmの花崗岩地帯を流れ、その浸食により現在の山並みを形作った[14]。川砂が白いことから、白川と呼ばれるようになったとされている[15]。地域住民は、大川、天王(てんのう)の川、裏の川などとも呼んでいた[16]。なお白川についてはかつて、鴨川に流入するおおよそ三条通以北を北白川、以南を南白川と呼んだという[17]

地元では相当な荒れ川とされ、かつては度々氾濫を起こしており、1889年(明治22年)には北白川小学校の校舎も流失するなどの被害が発生した[* 10]。そのため、かつては堰堤には鉄砲水対策の土嚢が積み上げられ[* 11]、水門も二重、三重に設けるなどの洪水対策が成されていた[18]1970年代からは近代的な改修工事が望まれ、現在、北白川の琵琶町以下では相当に掘り下げられた上で三面がコンクリート仕上げとなっており、さらに地下には河川のバイパスともいうべき今出川分水路が今出川通の地下に設けられ、琵琶町には砂沈池も備えられている。ただし「京都市情報館」(京都市公式Webサイト)によれば、2010年(平成22年)6月時点で、改修進捗度は計画の半分にも達していない。なお、北白川天神宮前に「萬世橋」という石組みのアーチ橋がかかっており、改修工事時には一端分解し、後に組み直すことが検討されたが、爾後の復元に不安を覚えた氏子会の要望により、困難ながらも橋を保全したままで改修工事が行われた[19]

また、流域では水車による産業が発達していた[* 12]。山間部には重石、蛇石など特徴的な形をした岩があり(文献には残るが現存していないものも多い)、白川の滝と共に、旅人の目を楽しませた。


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