北白川宮能久親王
北白川宮
北白川宮能久親王
続柄
伏見宮邦家親王第9王子
崇光天皇男系15世孫
霊元天皇女系6世孫
身位親王
敬称殿下
出生1847年4月1日
山城国平安京(京都)
死去 (1895-10-28) 1895年10月28日(48歳没)
日本統治下台湾 台南
埋葬豊島岡墓地
配偶者山内光子
島津富子
子女竹田宮恒久王(長男)
北白川宮成久王(3男)
保科武子(3女)
父親伏見宮邦家親王
母親堀内信子
栄典 大勲位菊花章頸飾
大勲位菊花大綬章
功三級金鵄勲章
役職陸軍大将
第4師団長
第6師団長
近衛師団長
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北白川宮能久親王(きたしらかわのみや よしひさしんのう、1847年4月1日〈弘化4年2月16日〉 - 1895年〈明治28年〉10月28日)は、日本の皇族。北白川宮第2代当主。陸軍軍人。幼名は満宮(みつのみや)。最後の輪王寺宮(りんのうじのみや)として知られる。
伏見宮邦家親王の第9王男子。生母は堀内信子。幕末に活躍した山階宮晃親王と久邇宮朝彦親王の弟で、仁孝天皇の猶子にもなっているため、孝明天皇の義弟、明治天皇の義理の叔父に当たる。また、弟で義父に当たる北白川宮智成親王が孝明天皇の猶子に当たるため、明治天皇の義理の甥でもある。 嘉永元年(1848年)8月3日、1歳で青蓮院宮の附弟となり亡き仁孝天皇の猶子とされ、嘉永5年(1852年)に梶井門跡の附弟となる。安政5年(1858年)10月22日に親王宣下を受け能久の諱を与えられ、翌月の11月23日には輪王寺宮慈性入道親王(有栖川宮幟仁親王の弟)の附弟となり、兄の青蓮院宮尊融入道親王(後の久邇宮朝彦親王)を戒師として得度し、公現(こうげん)の法諱を称する[1][2]。 慶応3年(1867年)5月、江戸に下って上野の寛永寺に入り、同月の慈性入道親王の隠退に伴って、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承した。院号は「鎮護王院宮」、歴代門主と同じく「輪王寺宮」と通称された。慈性入道親王は天台座主であったが、座主職は梶井門跡の昌仁入道親王が再継承している。 慶応4年(明治元年、1868年)1月に戊辰戦争が始まり鳥羽・伏見の戦いの後、輪王寺宮は前将軍徳川慶喜の依頼を受けて輪王寺宮執当の覚王院義観ら側近とともに2月21日に江戸を出発し、3月7日に東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府城に訪ね、新政府に慶喜の助命と東征中止の嘆願を行った。しかし、助命については条件を示されたものの東征中止は一蹴されたため6日後の13日に寛永寺へ戻った。 父や熾仁親王からは京都へ帰還を勧められるも拒絶した。彰義隊が寛永寺に立て篭もった後の5月4日には熾仁親王が江戸城に招いているが、この使いには病であると称して会わなかった[3]。5月15日に上野戦争が発生したが、彰義隊の敗北により寛永寺を脱出、25日に羽田沖に停泊していた榎本武揚率いる幕府海軍の手引きで長鯨丸へ乗り込み東北に逃避、平潟に到着した。東北では覚王院義観ら側近とともに会津、米沢を経て仙台藩に身を寄せ、7月12日に白石城へ入り奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。輪王寺宮自身も「会稽の恥辱を雪ぎ、速に仏敵朝敵退治せんと欲す」と述べるなど、新政府軍に対して強い反感を持っていた[4]。奥羽越列藩同盟側は輪王寺宮に対し、軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請した。しかし輪王寺宮は「君側の奸」を除くことには同意し、政治面での盟主にはなるが、出家の身であるために軍事面では指導できないとした[5]。結局6月16日に盟主のみの就任に決着、7月12日には白石城に入り列藩会議に出席した。以後降伏まで白石城と天台宗仙岳院を行き来していた[6][7]。 輪王寺宮が戊辰戦争中の慶応4年に彰義隊に擁立された頃、または奥羽越列藩同盟に迎えられた頃、東武皇帝あるいは東武天皇として皇位に推戴されたという説がある。 上野戦争の頃から輪王寺宮が天皇として擁立されるという噂は流れており[8]、輪王寺宮の江戸脱出に手を貸した榎本武揚も「南北朝の昔の如き事を御勤め申す者が有之候とも御同意遊ばすな」と忠告している[4]。 法学者であり、歴史関係の著書もある瀧川政次郎[9] はこの際輪王寺宮が同盟の「天皇」として推戴された可能性があると指摘し、その後、武者小路穣[10]、鎌田永吉
略歴
幕末
「東武天皇」説