凡例北畠顕成
時代南北朝時代
生誕建武2年(1335年)[1]?
死没不詳
改名行意(法名)?
戒名(伝)恵林院義峰仁裕
官位内大臣(南朝)
主君後村上天皇→長慶天皇→後亀山天皇?
氏族村上源氏中院流、北畠家
父母父:北畠顕家、母:日野資朝女?[2]
兄弟顕成、師顕、女子
子顕元
北畠 顕成(きたばたけ あきなり)は、南北朝時代の公卿。贈右大臣北畠顕家の嫡男である。南朝に仕えたが、事績には不明な点が多い。後世の所伝では、『太平記』作者の一人、また浪岡氏や村上水軍の祖に擬せられる。 後醍醐天皇のために忠死した北畠顕家の遺児であることから、南朝で相当の寵愛を受けていたであろうと想像されるが、それを物語る史料は確認できない。正平一統の正平7年(1352年)1月従四位上に昇叙したのが初見[3]。やがて累進して公卿に列し、天授4年/永和4年(1378年)従二位権大納言に叙任されたというが[4]、さらに内大臣へ昇進したことを示唆する史料があり[5]、これが極官であろう。一説には、出家して行意と号したとされる。『南朝公卿補任』には元中3年2月28日(1386年3月28日)に薨去したと伝えるが、これは以下に諸説として列挙する所伝と必ずしも符合しない。 近世史書には顕成の事績について触れたものがあるが、これらの所伝は史料不足のため真偽が定かでなく、以下に諸説として列挙するに留める。
経歴
諸説
『太平記』の作者
『太平記評判秘伝理尽鈔』は、『太平記』作者の一人として顕成の名を挙げている。同書によれば、顕成は26歳で出家して行意と号し、多武峰に退いて児島高徳や日野蓮秀らと共に『太平記』の一部を執筆・校閲したという。顕成の出家を伝える史書として、他に『南山要記
懐良親王に従軍
『北畠准后伝
浪岡北畠氏の祖
一方で顕成が陸奥に下ったとする所伝もある。浪岡氏関連の系図がそれで、『応仁武鑑』・『津軽旧記』によれば、顕成は正平2年(1347年)霊山城陥落の後、南部氏の庇護の下で船越(岩手県山田町)に居を構えたが、文中2年(1373年)安東氏の招請で浪岡(浪岡町)に入部し、その子孫が土着して浪岡氏を称したという。その菩提所である京徳寺の過去帳には、忌日を応永9年8月7日(1402年9月4日)、法号を恵林院とする。しかし、北畠氏一族が浪岡に依拠した時期や人物については異説が多く、応永年間に孫の顕邦が入部したとする説の他、建徳年間の守親入部説や元中年間の親統入部説などがあり、何れも事実関係を確認できない。
後期村上水軍の祖
『後太平記』・『予陽盛衰記』によると、後期村上水軍の祖村上師清は北畠顕家の遺児であるとされ、父戦死後は信濃に蟄居していたが、雑賀衆の協力を得て伊予大島に進出し、村上義弘の跡を継いだという。能島村上氏の系図ではこの師清を顕成と同一人とするが、何れも名門志向意識に基づく仮冒であろう。
系譜
父:北畠顕家(1318-1338)
母:日野資朝女?(?-1341?)または浪岡秀種の娘・頼子(萩の局)
妻:不詳
男子:北畠顕元
男子:親成
男子:覚杲
脚注^ 『伊勢記』
^ 浪岡秀種の娘・頼子(萩の局)と伝えているものも多い。