北畠顕家
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 凡例北畠 顕家
北畠顕家(霊山神社蔵)
時代鎌倉時代末期 - 南北朝時代
生誕文保2年3月2日1318年4月3日
死没延元3年/建武5年5月22日1338年6月10日)(21歳没)
神号北畠顕家命
戒名長興寺道音[要出典]
墓所大阪市阿倍野区王子町の北畠公園
大阪市阿倍野区北畠阿部野神社
福島県伊達市大石の霊山神社
官位建武政権従二位右衛門督検非違使別当権中納言鎮守府大将軍
南朝権中納言[1]陸奥大介[1]鎮守府大将軍[1]従一位右大臣
主君後醍醐天皇→義良親王(後の後村上天皇
氏族北畠家
父母父:北畠親房、母:不明[注釈 1]
兄弟顕家、顕信顕能、唐橋顕雄、顕子、冷泉持定室
日野資朝娘(萩の局?[注釈 2])、松代の方
北畠顕成、北畠師顕、女子(安東貞季室)、村上師清?
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北畠 顕家(きたばたけ あきいえ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代南朝公卿武将。『神皇正統記』を著した准三后北畠親房長男。主著に『北畠顕家上奏文』。南朝従二位権中納言陸奥大介鎮守府大将軍従一位右大臣

後醍醐天皇側近「後の三房」のひとり北畠親房の子として、前例のない数え14歳(満12歳)で参議[注釈 3]に任じられて公卿に登り、建武の新政では、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国に下向した(陸奥将軍府)。のち足利尊氏との戦い建武の乱が起こると、西上し、第一次京都合戦で新田義貞楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝の内乱が開始するにおよび、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。青野原の戦いで幕将土岐頼遠を破るが、義貞との連携に失敗し直進を遮られたため、転進。伊勢経由で迂回して大和などを中心に北朝軍相手に果敢に挑むも遂に和泉国堺浦・石津に追い詰められ、石津の戦いで奮戦の末に幕府執事高師直の軍に討ち取られて戦死した。享年21(満20歳)。

後醍醐天皇の御前で、眉目秀麗な北斉の皇族武将高長恭に扮して『陵王』を舞ったなどの芸能関係の逸話もある。

死後、明治時代に顕家を主祭神とする霊山神社阿部野神社が建設され、これらは建武中興十五社となった。
生涯
幼少期

文保2年(1318年3月2日[注釈 4][2]北畠親房の長男として生まれた。父の親房は後の「三房」の1人として後宇多天皇後醍醐天皇に近侍した人物である。

元応3年(1321年)1月、顕家は3歳で叙爵されたのち、さまざまな官職を歴任し、元弘2年/正慶元年(1332年)12歳までに従三位参議左近衛中将となった[2]。14歳で参議はほかに先例がなく、中原師守の日記『師守記』では「幼年人、参議に任ずる例」として、康元2年(1257年)11月に15歳で参議となった四条隆顕ともに記されている。

元弘元年(1331年)3月、後醍醐天皇が西園寺公宗の北山第に行幸した際、顕家もこれに供し、「陵王」を舞った[2]。『増鏡』では、このとき帝も笛を吹き、顕家が舞い終えたのち、前関白である二条道平が自身の紅梅の上着、二藍の衣を褒美として与えたという[注釈 5]

このように、顕家は史上最年少で参議に任じられるなど先例のない昇進を示し、父親房同様に順調に出世をしていった[注釈 6]。これは北畠家が即位前の邦仁王のころより代々大覚寺統と深い関係にあったからであると考えられる[4]
陸奥への下向と統治後醍醐天皇像(清浄光寺蔵)

元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼしたのち、顕家は親房とともに開始された建武の新政を補佐していた[5][2]。同年8月5日、顕家は従三位陸奥守となる[6][7][2]

10月10日正三位に叙任され[8]、10月20日後醍醐天皇の皇子である義良親王(のちの後村上天皇)を奉じ、父とともに陸奥へ下向した[9][2]。11月29日、陸奥国の多賀城宮城県多賀城市)に到着し、東北地方の統治を始める[10][2]

建武元年(1334年)8月、顕家は津軽における北条氏残党の追討を開始[11]、11月19日までにこれを滅ぼし、12月17日には津軽平定の功績によって従二位に叙任された[12][2][7]


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