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凡例北畠親房
北畠親房(菊池容斎『前賢故実』より)
時代鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生誕正応6年旧暦1月(1293年2月)[注釈 1]
死没正平9年/文和3年旧暦4月17日
(1354年5月10日)[1]
改名北畠親房 → 宗玄(法名)→ 覚空(法名)
別名北畠准后、北畠一品、中院准后、
中院入道一品(新葉集)
戒名(伝)天徳院台宗覚元
墓所奈良県五條市西吉野町賀名生の華蔵院跡
奈良県宇陀市室生の室生寺 など
官位正二位大納言、源氏長者
入道従一位准大臣、准后(南朝)
贈正一位(明治41年)
主君伏見天皇 → 後伏見天皇 → 後二条天皇
→ 花園天皇 → 後醍醐天皇 → 後村上天皇
氏族村上源氏中院流北畠家
父母父:北畠師重、母:藤原隆重
北畠 親房(きたばたけ ちかふさ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿、歴史家。著書の『神皇正統記』で名高い。源氏長者、南朝従一位准大臣、准三后。贈正一位。後醍醐天皇側近「後の三房」の筆頭。後村上天皇の治世下でも、興国5年/康永3年(1344年)春に吉野行宮に帰還してから、正平9年/文和3年4月17日(1354年5月10日)に没するまで、南朝を実質的に指揮した。建武の元勲の1人。 血筋上の父は北畠師重だが、実の祖父である北畠師親の養嫡子となる。これは、実父師重が、斜陽の傾向にある後宇多天皇の側近であったため、今後皇位継承の可能性が薄い後宇多系の公卿として公家社会にデビューするよりも、次期東宮予定者である恒明親王系(亀山天皇の側近・師親の養子)としてデビューする方が政治的に安全であったからであると考えられる[2]。 北畠家は、村上源氏の流れを汲む名門であり、正応6年(1293年)6月24日、生後わずか半年で叙爵。徳治2年(1307年)11月、左少弁に在任の際、清華家の北畠家よりも家格の低い名家出身の冷泉頼隆
生涯北畠親房墓
奈良県五條市西吉野町賀名生
後醍醐天皇の側近へ
後醍醐天皇が即位すると、吉田定房・万里小路宣房とならんで「後の三房」と謳われるほどの篤い信任を得た(但し、この3人は元々後宇多上皇に仕えていたのであり、後醍醐のために集っていたわけではない[3])。そして後醍醐天皇の皇子世良親王の乳人をゆだねられたほか、元応2年(1320年)10月には淳和院別当に補せられ、元亨3年(1323年)1月、権大納言に昇進し、同年5月には奨学院別当を兼ね、正中2年(1325年)1月には内教坊別当をも兼ねて、ついに父祖を超えて源氏長者となった。元徳2年(1330年)、世良親王の急死を嘆いて38歳で出家し、いったん政界を引退した。法名は宗玄。元弘の乱などの後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒計画には加担してはいなかったようである。 鎌倉幕府が倒れ後醍醐天皇による建武の新政が始まると、親房は政界に復帰した。しかし、親房は後醍醐と対立していた護良親王派の人物であったため、奥州駐屯を命じられた長男の顕家に随行し、義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて陸奥国多賀城へ赴くこととなった。陸奥将軍府設置の主導は護良親王であった。護良親王は、東北に所領を多く有していた東国武士団が足利氏に組織されつつある状況を憂慮し、東北を東国から切り離すことで、足利の勢力を削ごうとした[2]。護良親王が親房と顕家を陸奥に向かわせたことに対して、かつては反論があった。これは、『神皇正統記』には親房と護良親王の関わりが一切描写されていないためであった。しかし、『神皇正統記』には親房が最も心を込めて養育したはずの世良親王に関する記述が全く見当たらず、また、親房自身が護良親王と連携し、後醍醐と対立する行動を取っていたことを『神皇正統記』に記すわけにはいかなかったという理由から、『神皇正統記』には見えずとも親房と護良親王は深く連携し合っていたと考えられる[2]。また、建武政権成立時の親房や子の顕家にとって、陸奥に向かわされたことは左遷にも等しいことであり、後醍醐が陸奥下向を支持したならば、親房と顕家を高位高官に叙任してから下向させていたと考えられる[2]。さらに、親房と顕家が下向した後の陸奥国の政治体制は「奥州小幕府体制」と称すべきものであり、それは自ら征夷大将軍の地位を望んだ護良親王の発想にこそ似つかわしく、幕府政治の復活を決して認めようとしなかった後醍醐のする発想ではない[2]。加えて、護良親王には南部氏や工藤氏といった奥州の武士が仕えていたことが『梅松論』に記されており、陸奥が護良親王の重要な支持基盤であったと考えられる。以上のことからも、親房と護良親王の連携の跡が窺える[2]。
奥州への赴任