北炭夕張新炭鉱ガス突出事故
北炭夕張新炭鉱ガス突出事故(ほくたんゆうばりしんたんこうガスとっしゅつじこ)とは、1981年(昭和56年)10月16日に北海道炭礦汽船(以下「北炭」と表記)の関連会社「北炭夕張炭鉱」が経営する夕張新炭鉱(北海道夕張市。以下「北炭夕張新炭鉱」と表記)で発生したガス突出事故、およびこれに伴う坑内火災事故である。最終的な死者数は93人にのぼり、戦後に発生した炭鉱事故の死者数としては1963年(昭和38年)に発生した三井三池三川炭鉱炭塵爆発の458人、1965年(昭和40年)に発生した三井山野炭鉱ガス爆発事故の237人に次いで3番目の事故[1]となった。 終戦直後、国は国土の復興に不可欠な石炭・電力・鉄鋼の三事業を最優先で再生させる「傾斜生産政策」を打ち出したが、割安な海外炭や石油への依存度を強めるエネルギー政策の転換[2]により、以後は国の強い指導のもと、各炭鉱に合理化を求めた[3]。国は1962年(昭和37年)に策定された「石炭合理化大綱」により、当時出炭していた炭鉱を「ビルド鉱」「現状維持鉱」「スクラップ鉱」にランク分けし、国策として計画的な生産合理化と閉山に着手[3]。これにより九州(筑豊)・北海道(空知)をはじめとした産炭地域では昭和40年代にかけて、「スクラップ鉱」とされた中小炭鉱が次々に閉山へと追い込まれた[3]。その一方、「ビルド鉱」とされた大手炭鉱では国から補助金などを受けながら、最新の設備を導入して大規模炭鉱の開発を進めた。この「ビルド鉱」の一つが、1975年(昭和50年)6月に出炭を始めた[4]北炭夕張新炭鉱だった。 夕張は北炭が1890年(明治23年)より炭鉱開発を始め、従業員のために電気・ガス・水道・道路などの社会基盤も整備するなど、夕張の街は事実上、北炭が作ったものであった[2]。最盛期には大小24の炭鉱を擁し、11万7000人の人口で栄え「炭都」と呼ばれた夕張も、相次ぐ閉山により炭鉱の数は大幅に減り、事故発生時の1981年(昭和56年)には北炭夕張新炭鉱のほか北炭真谷地炭鉱・三菱南大夕張炭鉱の3つにまで減っていた。こうした石炭産業
国の石炭政策と北炭夕張新炭鉱の開鉱
北海道新聞が取材した当時の関係者の証言によると、国から『生産計画を達成できなければ、補助金を打ち切る』と圧力をかけられ、会社は計画達成のために無理をし続けていたという[6]。「坑道が地圧でつぶれ炭車(採掘した石炭を運ぶ箱車)が通れなくなったら、レール部分を掘り下げる応急措置で生産を続けた」とも証言している[6]。夕張は良質な原料炭(主に製鉄・鋳物用に使われる粘結性の強い強粘結炭[7][8])が産出された[9]が、一方でメタンを多く含むガス(コールベッドメタン)が頻繁に発生していたうえ、地下深い鉱脈で採炭していたことからたびたびガス爆発や炭塵爆発、落盤等の事故に見舞われ、災害の多さも際立っていた[10]。夕張新炭鉱でも営業開始直後の1975年(昭和50年)7月にガス突出事故(死者5名)が発生していたほか、1981年(昭和56年)にも2度の落盤事故などで5名が死亡していた[4]。夕張新炭鉱の石炭層は盤圧が高いうえに自噴メタンガス量も北海道内の他炭鉱の平均値と比較して3倍の値であり、ガス突出事故の起きやすい炭鉱として要注意とされていた。その一方、事故が発生した北部開発区域は北炭再建の決定的な鍵を握る場所とも位置づけられていた[4][11]ため、大量のガスや盤圧対策が技術的に解決されていなかったにもかかわらず、日産5000トンとしていた出炭計画量を下回る状況が営業開始当初より続いていたことから採炭を優先し、ガス抜きのためのボーリングなど坑内の保安対策は後手に回っていた[12]。坑内のガス濃度は1.5%を超えると危険な状態とされ、会社の基準では坑内員を避難させることになっていたが、坑内員のガス測定器から警報ブザーが鳴りっぱなしの状態であることを保安係員に報告しても、ブザーが鳴る目盛りを2%まで上げて採炭を続けさせた。事故現場付近では以前より警報音が鳴り続けており、ガス濃度が高いことを示していたため「発破は危険」と進言していたが、それも無視されたという[13]。 記載の日時はすべて日本標準時(JST)を用いている。 1981年(昭和56年)10月16日12時41分ごろ、海面下810メートル(坑口より約3000メートル)にある『北部区域北第五盤下坑道』の掘進作業現場付近で大規模なガス突出事故が発生[4]。地上の総合事務所内にある集中監視室のメタンガスセンサーに異常値が出ていることを確認したことから、坑内の検査員と連絡をとって事故発生を確認[4]。坑内では下請け企業の坑内員を含め838人が入坑しており、北部方面では事故が発生した北第五盤下坑道の95人をはじめ160人が一番方として作業を行っていた[4]。会社は地上から全坑内員に退避命令を出し、近隣の北炭幌内炭鉱・北炭真谷地炭鉱へも応援を求め、計50名からなる救護隊が組織され救出作業を開始した[4]。77人は自力脱出、または救護隊によって救出されたが、救護隊により33名が遺体で収容されたほか、坑内で10名の死亡を確認している[4]。死亡者の多くは脱出中に坑道内で倒れていたところを救護隊によって発見された。死因はいずれもメタンガスを大量に吸ったことによる酸欠死、および粉塵による埋没死とみられた[4]。死者の中には現職の夕張市議会議員も含まれていた[14]。当時の北海道新聞によると、札幌鉱山保安監督局などが救出された坑内員や入坑した救護隊員などからの調査として、北第五盤下坑道後向切羽から約100メートル手前に崩落現場があり、大量の粉塵で坑道がふさがっていたうえ、ガスが走りぬけた痕跡もみられたことから、当初はこの付近が突出現場とみられていた[4]が、18日までに突出現場を北第五盤下坑道の第一立入ゲート付近と断定。
事故発生から収束まで