「北海道夕張東高等学校」はこの項目に転送されていますが、1983年に閉校した北海道夕張東高等学校(旧北海道夕張鹿島高等学校)とは異なります。
北海道夕張高等学校
夕張高等学校校舎
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度58分49.5秒 東経142度0分18.5秒 / 北緯42.980417度 東経142.005139度 / 42.980417; 142.005139
北海道夕張高等学校(ほっかいどうゆうばりこうとうがっこう、Hokkaido Yubari High School)は、北海道夕張市に所在する道立高等学校。 1936年に夕張高等家政女学校として開校。幾多の変遷を辿り、1951年12月に北海道夕張南高等学校となる。その後1992年に旧制中学校を前身とする北海道夕張北高等学校と統合、北海道夕張高等学校と改称された。 2007年に夕張市が財政再建団体となったことで閉校が囁かれた。これは、少なくとも平成13年度から平成18年度を除き定員割れが続いていたこと[1]、また平成18年8月に北海道教育委員会により策定された「新たな高校教育に関する指針」により、1学年3学級以下の小規模校の場合、再編の可能性が高くなり[2]、その当時1学年2学級であったため、再編の可能性が高かったためである。しかし地元進学率が高いこと(平成26年度夕張中学校卒業生65名のうち、夕張高校進学者37名[地元進学率:約56.9%][3]であった。また平成27年度高校入学者39名であり、地元中学卒業者が占める割合は約94.9%であった。)、他の高校に通う場合に通学が難しい地域である状況を踏まえて[4]、学級減にした上で存続している。 一学年の定員は平成18年度より80名であった。平成18年度を除いて、毎年定員割れとなっていた影響(入学定員充足率が高い年:平成19年度[83.75%]、入学定員充足率が低い年:平成22年度[60%][1])から平成25年度以降は、40名で募集している[5]。また、平成31年度の入学生は20名であった[1]。(1学年の在籍生徒数が5月1日時点で20名未満であり、かつ生徒数の増加が見込まれない場合は、再編整備される可能性が更に高くなる[6])更に、平成31年度より地域連携特例校が導入され、岩見沢東高等学校が協力校となる[7][8]。令和6年度の新入生は26名。全校生徒59名である。
歴史
沿革
1936年4月1日 - 夕張町立高等家政女学校として開校。夕張尋常高等小学校を仮校舎とする。
1938年11月23日 - 独立校舎へ移転。
1940年4月1日 - 夕張町立高等女学校と改称。
1941年4月1日 - 市制施行により夕張市立高等女学校改称。
1944年3月31日 - 女子勤労挺身隊出動式挙行。
1945年6月30日 - 学徒隊結成式挙行。
1947年5月28日 - 新憲法施行記念植樹。
1948年4月1日 - 学制改革により夕張市立高等学校と改称。全日制普通科設置。
1950年4月1日 - 男女共学開始。
1950年7月25日 - 北海道夕張東高等学校と改称。
1951年4月1日 - 商業科設置。
1951年10月1日 - 校歌制定。
1951年11月25日 - 現在地の新校舎へ移転。
1951年12月15日 - 北海道夕張南高等学校と改称。
1952年4月19日 - 定時制第1回入学式挙行(普通科・商業科)。
1952年4月20日 - 登川分校設置(1954年道立移管、北海道夕張登川高等学校)。
1953年4月12日 - 定時制真谷地分室設置(1955年独立、北海道夕張真谷地高等学校)。