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きたざわ ひょう
北沢 彪
「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年)
本名菅野 義雄(すげの よしお)[1][2][3]
別名義北澤 彪[3]
生年月日 (1911-05-18) 1911年5月18日
没年月日 (1980-08-04) 1980年8月4日(69歳没)
出生地 日本 東京市小石川区(現在の東京都文京区)
死没地 日本 東京都
身長174 cm(1963年時点)[4]
職業俳優
活動期間1931年 - 1980年
配偶者堤真佐子
主な作品
テレビドラマ
『娘と私』
『信子とおばあちゃん』ラジオ番組
『君の名は』
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北沢 彪(きたざわ ひょう[4][2]、本名;菅野 義雄(すげの よしお)[1][2][3]、1911年5月18日[1][4] - 1980年8月4日)は、日本の俳優[1]。東京市小石川区(現在の東京都文京区)出身。妻は俳優の堤真佐子。文化学院文学部卒[1][2]。 文化学院在学中から演劇活動を行い、1931年、同窓生の長岡輝子らとテアトル・コメディを結成[注釈 1]。 昭和12年、劇団解散とともにPCL(東宝の前身)に入社。 復員後はフリーランスで活動し[4]、1950年に自宅で朗読(後に演劇)集団やまびこ会を主宰。多くの演劇青年がこれに参加し、本格的な活動を志向することとなり、テアトル・エコーと命名された。1956年に劇団現代座を創立[4]。現代座と並行して綜芸プロに所属し[2]、二月プロなどにも所属していた[4]。 ラジオでは『君の名は』で主人公の後宮春樹を演じた[注釈 2]。 朝の連続テレビ小説記念すべき第一回作品『娘と私』で主演したことでも知られ、今日に至る定番ドラマの確立にも寄与した。
人物・来歴
出演
映画
かぐや姫(1935年)
女軍突撃隊(1936年)[2][注釈 3]
球根三銃士(1936年)
吾輩は猫である(1936年)
母なればこそ(1936年)
女人哀愁(1937年)
からゆきさん(1937年)
青春部隊(1937年)
日本女性読本(1937年)
お嬢さん(1937年)
維新秘話 戦ひの曲(1937年)
美しき鷹(1937年)
たそがれの湖(1937年)
世紀の合唱 愛国行進曲(1938年)
新柳桜(1938年)
街に出たお嬢さん(1938年)
冬の宿(1938年)
鶯(1938年)
沙羅乙女(1939年)
忠臣蔵(1939年)
上海陸戦隊(1939年)
街(1939年)
君を呼ぶ歌(1939年)
雲月の鈴蘭の妻(1940年)
銀翼の乙女(1940年)
釣鐘草(1940年)
嵐に咲く花(1940年)
二人の世界(1940年)
隣組の合唱(1940年)
大地に祈る(1941年)
虞美人草(1941年)
闘魚(1941年)
指導物語(1941年)
八十八年目の太陽(1941年)
母は死なず(1942年)
ハワイ・マレー沖海戦(1942年) - 津村主計長[5]
明日を創る人々(1946年)
或る夜の殿様(1946年)
今ひとたびの(1947年)
女優(1947年)
銀座の踊子(1950年)
夜の緋牡丹(1950年)
風にそよぐ葦(1951年)
宝塚夫人(1951年)
桃の花咲く下で(1951年)
私はシベリヤの捕虜だった(1952年)
蛇と鳩(1953年)
大阪の宿(1954年)
日本敗れず(1954年)
泉へのみち(1955年)
不滅への熱球(1955年)
元禄美少年録(1955年)
嫁ぐ日(1956年)
父と子と母(1956年)
のり平の三等亭主 愉快な家族(1956年)
江戸三国志(1956年)
検事とその妹(1956年)
あなたも私もお年頃(1956年)
波止場の王者(1956年)
曙荘の殺人(1957年)
新しい背広(1957年)
純愛物語(1957年)
続サラリーマン出世太閤記(1957年)
森と湖のまつり(1958年)
若い素肌(1960年)
大暴れ風来坊(1960年)
美しき抵抗(1960年)
日本のいちばん長い日(1967年)
眠れる美女(1968年)
リオの若大将(1968年)
クレージーの殴り込み清水港(1970年)
「されどわれらが日々」より 別れの詩(1971年)
栄光への反逆(1970年)