北極海航路
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日本東京ドイツハンブルクを結ぶ航路。緑線はマラッカ海峡スエズ運河経由の一般的な航路、赤線がユーラシア大陸の北を回る北極海航路。

北極海航路(ほっきょくかいこうろ、英語: Northern Sea Route、NSR、ロシア語: Се?верный морско?й путь、ラテン転記例:Severnii Morskoi Put)は、ユーラシア大陸北方(ロシア連邦シベリア沖)の北極海を通って大西洋側と太平洋側を結ぶ航路である。

北極海を通り、ヨーロッパアジアを結ぶ最短航路(大圏航路)のうちの一つで、ヨーロッパから北西に向かい北アメリカ大陸を回って、大西洋と太平洋を結ぶ「北西航路」と対をなす。20世紀初頭以前のヨーロッパでは、ヨーロッパから北東方向へ向かいアジアに至るために「北東航路」(Northeast Passage)と呼ばれていた。現代のロシアにおける呼称は「北方航路」であり、「Северный морской путь」の各単語の頭を採って「セヴモルプーチ」(Севморпуть;Sevmorput)とも略される。

この航路の大部分を占める北極海は海氷流氷に覆われる季節が長く、20世紀まで航路として使われることは少なかった。近年の地球温暖化による影響か、年間で夏期のみ船が海氷域に入らず航行できるようになった[注釈 1]。全地球的な気候変動により北極圏が温暖化し、北極海の海氷の範囲が縮小し、氷結する期間も減っているため、航行可能な期間が長くなりつつある。こうした「開通」期間は年によって変わり、2020年は88日間(8月2日 - 10月28日)で最長となった[2]。時季によっては、砕氷船も投入される[2]。ロシア北極圏のヤマル半島からアジアへの液化天然ガス(LNG)輸出が始まったこともあり、北極海航路で運ばれた総貨物量は2020年に約3300万トンと15倍程度に増えた[2]

この航路は、ソマリア沖マラッカ沖海賊で悩まされる、アデン湾マラッカ海峡経由の航路より短い上に治安も悪くなく、大型船舶でなければ[3]、ロシア北方の資源をアジアやヨーロッパに運ぶのに適しているため、物流や地政学の面で注目されている。
歴史
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出典検索?: "北極海航路" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2020年12月)
ウィレム・バレンツの航海。氷に閉じ込められ動けなくなった帆船。バレンツの作成した北極海地図

ロシア人の北極海航路開拓への当初の動機は、経済的な理由であった。ロシアでは、大西洋と太平洋をユーラシア大陸の北方で結ぶ航路があるかもしれないという仮説が、1525年に外交官ゲラシモフによって提唱された。しかしこれより前に、白海沿岸に移住したロシア人の開拓民や商人(ポモール)が、早くとも11世紀ごろから北極海沿岸の航路の一部を探検している。16世紀から17世紀にはアルハンゲリスクからエニセイ川河口に至る航路が確立された。北極海航路の先駆的存在であるこの航路は、東の終点に当たる交易地マンガゼヤの名を採ってマンガゼヤ航路(Mangazeya seaway)とよばれており、ポモール商人たちが短い夏の間にこの航路を往復してシベリアで採取される毛皮セイウチの牙などを運び、アルハンゲリスクでノルウェーイギリスデンマークの商人たちに売った(ポモール貿易(英語版))。

一方、16世紀から17世紀には、ヨーロッパ北部諸国(イギリス、オランダ、デンマーク、ノルウェー)が相次いでロシア北方の海を探検した。当時、喜望峰回りやメキシコ経由など、インド中国とヨーロッパを結ぶ海路はスペインポルトガルが押さえていたため、後発の諸国は最短距離となるはずの北極海経由の仮説上の航路を見つけようとしていた。

当時の西欧の人々は、沈まない白夜の太陽が夏の数ヶ月間北極圏を照らし続けることにより、北極海の氷が溶け、西欧から北極点を通って太平洋の中国やモルッカ諸島へ直行できる海路が開くと信じていた。ロシア・シベリア北方の「北東航路」探検は、北アメリカ北方の「北西航路」探検に劣らず熱心に行われ、羅針盤天測儀など航行用器具の発達がこれを後押しした。キタイ(北中国)の北沖を通ると考えられた北東航路沿岸にはキタイの文化の影響を受けた文明的な住民がおり、欧州の織物などの輸出先となるかもしれないという期待から[4]、最初は北西航路よりも北東航路探索が有望とみなされた。北極海経由の太平洋への到達の試みは全て失敗に終わったが、この過程で北極海に浮かぶ島々が次々と発見された。

スペインやポルトガルより遅れてようやく絶対王権が安定期を迎えた16世紀半ばのイギリスでは、1551年セバスチャン・カボットヒュー・ウィロビー卿、リチャード・チャンセラーがスカンジナビア沖を通りロシアへ至る貿易路や中国へ至る北東航路開拓を目指し「新しい土地への冒険商人会社」(Company of Merchant Adventurers to New Lands)を組織した。これは1555年、最初の勅許会社である「モスクワ会社」へと発展した。ヒュー・ウィロビー卿らは1553年に自らロシアへ向かう探検隊を組織して船出したが船団は嵐ではぐれ、ウィロビーの船はラップランドへ引き返すがそこで全員が凍死してしまい全滅した[4]。副官チャンセラーの船は白海に逃げ込み、陸路と河川でモスクワへ向かった[5]。チャンセラーらはツァーリイヴァン4世に謁見することができた[5]。チャンセラーは1555年再度ロシアへ航海し中国への航路を探るものの、1556年にイギリスへ戻る際に乗艦が難破し落命した。モスクワ会社はアルハンゲリスク経由のモスクワ国家との貿易を独占する傍ら、17世紀初頭にはヘンリー・ハドソンらを北極点やシベリア沖に向かわせた。しかし夏でも氷の漂う北極海に阻まれ、ノヴァヤゼムリャより先の航路を見つけることが困難と分かったため、以後は北西航路の探検に重点が置かれる。

特筆すべき北東航路探検は、オランダ人航海士ウィレム・バレンツによる1596年の航海である。彼らはノルウェーの北方沖でスヴァールバル諸島ビュルネイ島を発見し、ノヴァヤゼムリャの北端を回ってカラ海に入った。


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