北条高時
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 凡例北条 高時
北条高時像/宝戒寺所蔵
時代鎌倉時代末期
生誕嘉元元年12月2日1304年1月9日
死没元弘3年/正慶2年5月22日1333年7月4日
改名成寿丸(幼名)→高時→崇鑑(法名)
神号徳崇大権現
戒名日輪寺殿崇鑑
墓所鎌倉市小町 東勝寺跡のやぐら
官位正五位下、相模修理権大夫従四位
幕府鎌倉幕府第14代執権
主君守邦親王
氏族北条氏得宗
父母父:北条貞時、母:覚海円成安達泰宗の娘)
兄弟覚久、菊寿丸、高時、泰家、崇暁、金寿丸千代寿丸北条師時室、北条熙時室、土岐光定室、北条時基
正室安達時顕の娘
側室:常葉前(御内人五大院宗繁の妹)
側室:二位局
邦時時行、女子2人[1]
養子:治時
花押
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北条 高時(ほうじょう たかとき)は、鎌倉時代末期の北条氏得宗家当主鎌倉幕府第14代執権(在職:1316年 - 1326年)。第9代執権・北条貞時の三男。
生涯
誕生と元服

嘉元元年12月2日1304年1月9日)、北条貞時の三男として生まれる。三男であったが、長兄と次兄は夭折しているので、事実上の嫡男であった。

延慶2年(1309年)に7歳で元服する(『鎌倉年代記』)。この詳しい様子を伝える史料は今のところ発見されていないが、それまでの得宗家当主北条泰時経時時頼時宗の元服の様子は『吾妻鏡』で、父・貞時の元服の様子は『建治三年記』で確認することができる[2]。同様に、幕府の御所において、将軍(当時は守邦親王)を烏帽子親として行われたものと考えられている。

元服に際しては烏帽子親の偏諱実名の1字)を受けることが多いが、「高時」の名乗りを見て分かる通り、将軍の偏諱(守邦親王の「守」または「邦」の1字)は受けなかったようである。同時代(の上の立場)の者で「高」の字を用いる人物はおらず、研究では祖先とされる平高望(高望王)に肖ったものとする見解が示されている。元々は細川重男がこの説[注 1]を唱えたものの根拠なしとして論文等では示してはいなかったが、角田朋彦が根拠付きでこれを支持している。これは、細川が著書で、北条時宗(高時の祖父)の代に、得宗家による政治支配体制を確立させるにあたりその正統性を主張するために、祖にあたる北条義時武内宿禰になぞらえる伝説が生まれて流布していたこと[3][4] や、時宗とは不可分の関係にあった平頼綱(貞時の乳母の夫にあたる)が自らの家格を向上させるため、次男・資宗(助宗とも書く)の名字(名前の1字)を平資盛に求めた可能性があること[5] を述べており、こうした考え方が可能ならば、同様に時宗が自分の嫡男の名字を平貞盛に、貞時も嫡男の名字を高望王に、それぞれ求めたと考えることができるのではないかという理由によるものである。加えて角田は、貞時・高時の代には将軍→御家人という偏諱の授与の図式は存在せず[注 2]、得宗家当主である貞時の「貞」の字や高時の「高」の字が他の御家人に与えられる図式がこの時代に成立していたことが御家人の名前から窺え[7]、これは得宗権力が確立していたことの徴証の一つとして読み取れるとする見解を示している[8]
家督相続と執権への就任

応長元年(1311年)、9歳の時に父貞時が死去。貞時は死去の際、高時の舅・安達時顕内管領長崎円喜を幼い高時の後見として指名した。その後高時まで3代の中継ぎ執権[注 3]を経て、正和5年(1316年)、父と同じ14歳で14代執権となる。その頃には円喜の嫡男・長崎高資が権勢を強めていた。

高時は、既に亡き日蓮の弟子の日朗に殿中にて諸宗との問答対決の命を下し、日朗高齢のため代わりに門下の日印1264年 - 1328年)を討論に向かわせ、文保2年(1318年)12月20日から翌元応元年(1319年)9月15日にかけ3回にわたり、いわゆる鎌倉殿中問答(弟子日静が記録に残す)を行わせた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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