凡例北条 長時 / 赤橋 長時
勇猛百人一首
時代鎌倉時代中期
生誕寛喜2年2月27日(1230年4月11日)
死没文永元年8月21日(1264年9月12日)
享年35(満34歳没)[1]
別名陸奥次郎、赤橋長時、専阿(法名)
墓所泉谷山浄光明寺(鎌倉市扇ヶ谷)
同夢山願成就寺(東金市松之郷)
官位従五位下、左近衛将監、武蔵守、従五位上
幕府鎌倉幕府六波羅探題北方・評定衆・第6代執権(在職:康元元年〈1256年〉 - 文永元年〈1264年〉)
主君藤原頼嗣→宗尊親王
氏族北条氏(極楽寺流)
父母父:北条重時、母:平基親の娘(治部局)
兄弟為時、長時、時茂、業時、義政、忠時、葛西殿(北条時頼室)、安達泰盛室、宇都宮貞綱室
妻正室:北条時盛の娘
子義宗、長弁
北条 長時(ほうじょう ながとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府第6代執権(在職:康元元年11月22日〈1256年12月10日〉 - 文永元年〈1264年〉)である。居所から赤橋 長時(あかはし ながとき)とも称される。 重時の次男として生まれる[2]。重時が六波羅探題に任命されて上洛すると長時も随伴して上洛し、父の薫陶を受けながら京都で成長した[3]。 嫡男であった異母兄の為時は嘉禎元年(1235年)10月に疱瘡にかかって重篤になり、精神的疾患を伴う後遺症も残ったため、重時により廃嫡された。このため、長時が嫡男とされた[4][5]。 宝治元年(1247年)3月27日、北条時盛の娘と結婚する[6]。6月の宝治合戦の後の7月、父・重時は第5代執権で娘婿の北条時頼を補佐すべく鎌倉に下向し(『葉黄記』)[7]、父が鎌倉に下向した翌日の7月18日に後任として長時が六波羅探題北方に就任した[3]。
家系)。極楽寺流北条氏の嫡家・赤橋流の祖。妹に葛西殿(第5代執権・北条時頼の継室・第8代執権・北条時宗の母)・弟に北条時茂(常盤流の祖)・第5代執権・北条時頼とは義兄弟、第8代執権・北条時宗の母方の伯父にあたる。
生涯
重時嫡子
執権以前