北条重時
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「北条重時」のその他の用法については「北条重時 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

 凡例北条重時 / 極楽寺重時
義烈百人一首
時代鎌倉時代前期 - 中期
生誕建久9年6月6日1198年7月11日[1]
死没弘長元年11月3日1261年11月26日
改名重時、極楽寺観覚
別名相州、奥州、極楽寺殿、極楽寺禅門、極楽寺入道[2]
墓所神奈川県鎌倉市極楽寺
官位修理権亮従五位下駿河、従五位上、相模守、正五位下従四位下、従四位上、陸奥守
幕府鎌倉幕府六波羅探題北方→連署
主君源頼朝源頼家源実朝藤原頼経頼嗣宗尊親王
氏族北条氏極楽寺流
父母父:北条義時、母:姫の前
兄弟泰時朝時、重時、有時政村実泰竹殿一条実雅室(後に唐橋通時室)他
妻正室:苅田義季の娘
継室:平基親の娘
側室:家女房筑前局、少納言
為時長時時茂業時義政忠時葛西殿北条時頼継室)、娘(安達泰盛室)、娘(戸次重秀室)、娘(宇都宮経綱室)、娘(北条公時室)、他
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北条 重時(ほうじょう しげとき)は、鎌倉時代前期の武士北条氏の一門。鎌倉幕府2代執権北条義時の3男。母は正室比企朝宗の娘・姫の前極楽寺流の祖。第8代執権・北条時宗の母方の外祖父。

六波羅探題北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄・北条泰時から娘婿の第5代執権・北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。『六波羅殿御家訓』『極楽寺殿御消息』の作者で知られる[3]
生涯
少年期

建久9年(1198年)6月6日、源頼朝死去の前年に、北条義時の三男として鎌倉で生まれる。母は頼朝の仲介で義時の正室となった姫の前で、父義時は36歳、同母兄の朝時は6歳、異母長兄泰時は16歳の時である。

建仁3年(1203年)、6歳の時に比企能員の変が起こり、母の実家比企一族が義時ら北条氏によって滅ぼされた。姫の前は義時と離婚して上洛し、源具親再婚した3年後、重時が10歳の時に京都で死去している。『吾妻鏡』には、兄泰時・朝時、異母弟政村実泰元服記事があるが、重時の元服の記録はなく、元服した頃と思われる時期には母が京で亡くなっており、あまり恵まれた少年時代ではなかったと見られる。建暦2年(1212年)、15歳の時に義時の嫡男であった同母兄の朝時が父の勘気を被って義絶されている。
六波羅探題

承久元年(1219年)に22歳で小侍所別当就任、貞応2年(1223年)には26歳で駿河守となり、同母兄の朝時の官位を超越している。元仁元年(1224年)6月13日、27歳の時に父が死去し、異母兄の泰時が3代執権となる。寛喜2年(1230年)3月、京都六波羅探題北方を務める泰時の嫡子で甥の時氏が病となったため、後任を受けて鎌倉から上洛し、33歳で六波羅探題北方に就任。以降17年間六波羅の最高責任者となる。「御成敗式目」制定に関して泰時から重時にあてた書状はよく知られている。

仁治3年(1242年)の幕府による後嵯峨天皇擁立の際には、重時の同母妹竹殿を妻としていた土御門定通と連携して工作が行われた。同年に執権泰時が重病となると、鎌倉帰還を命じられて急ぎ鎌倉へ下った。泰時は六波羅探題北方である重時のみの鎌倉帰還を命じたにもかかわらず、南方の従弟時盛も無断で鎌倉に帰還し探題を解任されたため、泰時が没すると重時は六波羅に帰任し、最後の5年間は重時単独で任に当たった。

泰時の死去にあたり、同母兄朝時は泰時の後継を巡って不穏な動きを見せているが、その詳細は不明。泰時と朝時の間は疎遠であり、その没後も両者の家系で嫡流争いを続ける事になるが、重時は一貫して長兄泰時との関係は良好で、重時の家系はその後も泰時の家系得宗家を支えている。

寛元4年(1246年)、宮騒動により前将軍藤原頼経が京へ強制送還される。この年の8月、重時は後嵯峨上皇院司葉室定嗣を六波羅に呼び、5代執権となった北条時頼からの書状として、事件に関与した九条道家父子の更迭を後嵯峨上皇に奏上するよう要請し、幕府と上皇の仲介を行っている。9月1日、時頼は三浦泰村に対し、自分の相談相手にするために重時を京都から呼び戻したいと打診したが、泰村は頑なにこれを拒んだ。
連署就任と晩年

宝治元年(1247年)に執権時頼と外戚の安達氏らが三浦氏を滅ぼした宝治合戦において、重時の動向は不明であるが、接点のない時頼と重時の間には母方が同じ比企氏であり、高野山にいた安達景盛の介在があったと思われる。三浦氏滅亡後、50歳の重時は時頼の要請により鎌倉へ戻り、叔父時房死後に空席となっていた連署に就任し、時頼を補佐した。六波羅探題北方は次男の長時が就任した。重時の長女葛西殿は時頼の正室となり、後の8代執権北条時宗を生んだ。

建長8年(1256年)に出家し、引退後は極楽寺に隠居した。連署は弟の政村が就任した。同年執権時頼が病で出家したため、6代執権には長時が就任している。

同年、赤痢が猛威をふるい、宇都宮経綱に嫁いでいた重時の娘がこれが原因で死去している[4]
最期

弘長元年(1261年)6月1日、重時は病に倒れた。『吾妻鏡』ではで「怪異」により「心神網然」になったとされ、以後は「瘧病」のような症状となったという。鶴岡八幡宮別当の隆弁に6月11日に加持してもらったところ、隆弁は6月22日に症状が回復すると告げた。その予言通り、22日に重時は病気から回復し、6月25日に喜んだ重時や一族は隆弁に馬・南庭(銀)・剣などを贈った[5]

それから5か月後の11月3日、極楽寺別業で病死した。享年64[5](満63歳没)。死因は不明だが、6月の病が再発したともいわれる[2]


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