北条泰時
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 凡例北条泰時
和田合戰義秀惣門押破(歌川国芳)
時代平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕寿永2年(1183年
死没仁治3年6月15日1242年7月14日
改名金剛(幼名)→江間大(太)郎頼時(初名)→泰時、観阿(法名)
墓所神奈川県鎌倉市大船 常楽寺
官位駿河武蔵守讃岐守、左京権大夫、正四位下
幕府鎌倉幕府侍所別当六波羅探題北方、3代執権1224年 - 1242年
主君源頼朝頼家実朝藤原頼経
氏族桓武平氏北条氏得宗
父母父:北条義時、母:阿波局[注釈 1]
兄弟泰時、朝時重時有時政村実泰竹殿一条実雅室(後に唐橋通時室)、他
妻正室:矢部禅尼三浦義村の娘)
継室:安保実員の娘、他
時氏、女子(足利義氏室)[注釈 2]時実公義、女子(三浦泰村室)、女子(北条朝直室)他
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北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将鎌倉幕府第2代執権北条義時長男で、鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日1242年7月14日))。御成敗式目を制定した人物である。
生涯
出生から承久の乱まで

寿永2年(1183年)、北条義時の長男として生まれる。幼名は金剛。『吾妻鏡』は同年の記事が欠落しており、泰時の誕生記事はない。生母についても『吾妻鏡』には何も記されておらず、『鎌倉年代記』『武家年代記』『系図纂要』に御所女房の阿波局と記されているのみで出自は不明。おそらくは妾(側室)で泰時は庶長子だったと思われる[4][注釈 1]。父の義時は21歳、祖父の時政北条一族と共に源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りして3年目の頃である。

泰時が10歳の頃、御家人多賀重行が泰時と擦れ違った際、重行が下馬の礼を取らなかったことを頼朝に咎められた。頼朝の外戚であり、幕政中枢で高い地位を持っていた北条は、他の御家人とは序列で雲泥の差があると頼朝は主張し、重行の行動は極めて礼を失したものであると糾弾した。頼朝の譴責に対して重行は、自分は非礼とみなされるような行動はしていない、泰時も非礼だとは思っていないと弁明し、泰時に問い質すよう頼朝に促した。そこで泰時に事の経緯を問うと、重行は全く非礼を働いていないし、自分も非礼だと思ってはいないと語った。しかし頼朝は、重行は言い逃れのために嘘をつき、泰時は重行が罰せられないよう庇っていると判断し、重行の所領を没収し、泰時には褒美として剣を与えた。『吾妻鏡』に収録されるこの逸話は、泰時の高邁な人柄と、頼朝の泰時に対する寵愛を端的に表した話と評されている[5][注釈 3]

吾妻鏡』によれば、建久5年(1194年2月2日に13歳で元服、幕府にて元服の儀が執り行われ、烏帽子親となった初代将軍・源頼朝から偏諱(「頼」の1字)を賜って頼時(よりとき)と名乗る[5][注釈 4][12][13]。後に泰時と改名した時期については不明とされているが[5]、『吾妻鏡』を見ると、正治2年(1200年2月26日条の段階で「江間大郎頼時」となっていたものが、建仁元年(1201年9月22日条の段階では「江馬太郎殿泰時」(「間」と「馬」、「大」と「太」は単なる表記違いであろう)と変わっている[14]ことから、この間に改名を行ったものと考えられる[15]。改名した理由も不明だが、この時期は烏帽子親である頼朝が亡くなった正治元年(1199年)の直後であり、頼朝の死も関係しているものとみられる。

また元服の際には、同時に頼朝の命によって三浦義澄の孫娘との婚約が決められており、改名後の建仁2年(1202年)8月23日には三浦義村(義澄の子)の娘(矢部禅尼)を正室に迎えた。翌建仁3年(1203年)に嫡男時氏が生まれるが、後に義村の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。義村の娘との離縁の時期や理由は不明だが、実員の娘が次男時実建暦2年(1212年)に産んでいる事から、それ以前には離縁したものと考えられる。

建仁3年(1203年)9月には、比企能員の変で比企討伐軍に加わっている。建暦元年(1211年)に修理亮に補任する。建暦2年(1212年)5月、異母弟で義時の前室の子であり北条家嫡子であったと考えられる次郎朝時が第3代将軍・源実朝の怒りを買って父義時に義絶され、失脚している[注釈 5]。建暦3年(1213年)の和田合戦では父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡地頭職に任じられた。建保6年(1218年)には父義時から侍所の別当に任じられる。承久元年(1219年)には従五位上・駿河守に叙位・任官される。

承久3年(1221年)の承久の乱では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方には共に大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。以降京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。
第3代執権

貞応3年(1224年)6月、父・義時が急死したため、鎌倉に戻ると継母の伊賀の方が実子の政村を次期執権に擁立しようとした伊賀氏事件が起こる。伯母である尼御台・北条政子は大江広元と協議をして、泰時と時房を御所に呼んで両名を執権に任命し、伊賀の方らを謀反人として処罰した。泰時は政子の後見の元、家督を相続して42歳で第3代執権となる。ただし、政子が泰時を任命したのは、当時「軍営御後見」と呼ばれていた将軍の後見役であり[18]、泰時こそが執権制度の創設者で彼が初代の執権であったとする説もある(後述)。

伊賀の方は幽閉の身となったが、担ぎ上げられた異母弟の政村や事件への荷担を疑われた有力御家人の三浦義村は不問に付せられ、流罪となった伊賀の方の兄弟の伊賀光宗・朝行・光重も政子の死後間もなく許されて復帰している。


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