北条氏綱
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 凡例北条 氏綱
北条氏綱肖像画(小田原城所蔵)
時代戦国時代
生誕長享元年(1487年
死没天文10年7月19日1541年8月10日
改名伊勢伊豆千代丸(幼名) → 氏綱 → 北条氏綱
別名通称:新九郎
戒名春松院快翁活公
墓所早雲寺神奈川県足柄下郡箱根町
官位従五位下 左京大夫、贈従三位[1]
幕府関東管領足利晴氏補任)
氏族伊勢氏後北条氏
父母父:伊勢宗瑞(北条早雲)
母:小笠原政清の娘
兄弟氏綱、氏時葛山氏広長綱(幻庵)
妻正室:養珠院
継室:近衛殿近衛尚通女)
氏康為昌氏尭大頂院北条綱成室)、高源院(崎姫、山木大方、堀越六郎室)[2][3]、浄心院(太田資高室)、芳春院(足利晴氏継室)、ちよ(葛山氏元室)、女(吉良頼康室)[4]
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北条 氏綱(ほうじょう うじつな)は、戦国時代武将戦国大名後北条氏第2代当主。

伊豆国相模国を平定した伊勢宗瑞 (伊勢盛時、北条早雲) の跡を継いで領国を武蔵半国、下総の一部、そして駿河半国にまで拡大させた。また、「勝って兜の緒を締めよ」の遺言でも知られる。

当初は伊勢氏を称しており、北条氏を称するようになるのは父・宗瑞の死後の大永3年(1523年)か大永4年(1524年)からである。宗瑞は北条氏を称することは生涯なかったが、後北条氏としては氏綱を2代目と数える。なお、氏綱以降の当主が代々通字として用いることとなる「氏」の字は、宗瑞の別名として伝わる「長氏」「氏茂」「氏盛」の偏諱に由来するものとも考えられるが(もっとも、近年の研究では宗瑞の諱は「盛時」であったとするのが定説となっている)、氏綱の元服時に宗瑞がまだ今川氏の姻族・重臣であったことから従兄である今川氏親からの偏諱として与えられたのではないかとする説がある[5]
生涯
家督相続まで
元服まで

長享元年(1487年)、伊勢宗瑞(伊勢盛時、北条早雲)の嫡男として生まれる。従来、宗瑞は没年88歳とされていたが、これを64歳とする説が近年は有力になっており[6]、その説によれば、宗瑞が32歳の時に氏綱が生まれたことになる。母は宗瑞の正室で幕府奉公衆小笠原政清[注釈 1]の娘・南陽院殿である。幼名は伊豆千代丸。元服後には父と同じ通称である新九郎を称した[7]。氏綱が生まれた年に宗瑞は小鹿範満を討って、姉・北川殿の息子の龍王丸(のちの今川氏親)を今川家の当主に据えており、その功により興国寺城主となっている。

おそらく文亀年間(1501年から1504年)ごろに元服し、氏綱と名乗る。氏綱が元服した頃には宗瑞は今川氏の家臣としてよりも伊豆国を支配する大名としての活動に注力しだしたころであった。宗瑞は相模国に進出し、小田原城を奪取するなど、勢力を拡大したがそれは関東を支配する上杉氏との対立を意味した。氏綱は宗瑞の嫡男として以後多くの合戦を経験していくことになる。
伊勢氏の後継者

永正元年(1504年)、立河原の戦いに参戦した。このとき宗瑞の弟伊勢弥二郎が討死したためその後を継いで小田原城代となったと考えられる(ただし伊勢弥二郎の没年については諸説ある)。

氏綱の文書上の初見は永正9年(1512年)で、宗瑞の後継者として活動していたことがうかがえ[8][9]、宗瑞が大森氏から奪取した相模国小田原城に在番していたと推定されている[10][11]

その後、相模平定戦においては宗瑞と共に相模に進軍し三浦氏の本拠地新井城を包囲し永正13年(1516年)に三浦氏を滅ぼした。この間に結婚し永正12年(1515年)には嫡男の氏康が誕生している。

永正15年(1518年)、宗瑞の隠居により家督を継ぎ、当主となる。永正16年(1519年)に宗瑞が死去したため、名実共に伊勢(後北条)氏の当主となった。

宗瑞が死んだ時点で伊勢氏(後北条氏)の領土は伊豆の全域と相模の大部分(津久井城など一部の相模北部を除く)であった。氏綱は韮山城から小田原城へと居城を移すと領土拡大のため邁進していく。
北条氏への改称箱根神社。 神奈川県足柄下郡箱根町
関東情勢と国力の増強

伊勢氏はもともと山内上杉氏と敵対関係にあったが、永正の乱により伊勢氏との繋がりをもつ上杉憲房が当主となったことで、山内上杉氏とは停戦となった。また、相模平定戦で争った扇谷上杉氏とは、両氏が支援する小弓公方足利義明の仲介によりこれも停戦した。また氏綱は小弓公方方の真里谷武田氏と同盟し、安房国里見氏とも友好的であった。そのため氏綱と表だって敵対する勢力はなく、氏綱は平和を元に国力増強に力を注ぐ。

氏綱の家督相続とともに伊勢(後北条)氏は虎の印判状を用いるようになっている[12][13]。印判状のない徴収命令は無効とし、郡代・代官による百姓・職人への違法な搾取を抑止する体制が整えられた[14][15]。それまで、守護が直接百姓に文書を発給することはなかったが、印判状の出現により戦国大名による村落・百姓への直接支配が進むようになる[10][16]

宗瑞の時代、伊勢(後北条)氏の居城は伊豆韮山城であったが、氏綱はそれまで在番していた相模の小田原城を本城化させた[17]。また家督相続に伴う代替わり検地の実施と、安堵状の発給を行っている[18][19]

大永年間(1521年 - 1527年)から氏綱は寒川神社宝殿・箱根三所大権現宝殿の再建、そして相模六所宮・伊豆山権現の再建といった寺社造営事業を盛んに行っており、その際に「相州太守」を名乗り(氏綱が相模守になった事実はない)、事実上の相模の支配者たるを主張している[20]


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