北条氏政
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 凡例北条 氏政
北条氏政像(小田原城所蔵)
時代戦国時代 - 安土桃山時代
生誕天文7年(1538年)(天文8年(1539年)とも)
死没天正18年7月11日1590年8月10日
改名松千代丸(幼名)→氏政
別名通称:新九郎、号:截流斎(せつるさい)
戒名慈雲院松巌傑公
墓所神奈川県足柄下郡箱根町の金湯山早雲寺
官位従四位下 左京大夫相模守
氏族後北条氏桓武平氏
父母父:北条氏康
母:瑞渓院今川氏親の娘)
兄弟氏親、氏政、氏照氏規氏邦上杉景虎ほか
妻正室:黄梅院武田信玄の娘)
継室:鳳翔院殿
氏直太田源五郎太田氏房ほか
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北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、戦国時代相模国戦国大名武将後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院今川義元の甥にあたる。子に北条氏直など。正室の黄梅院武田信玄の娘で、武田義信武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。

氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招き、数か月の籠城の末に降伏して切腹し、後北条氏による関東支配は終結した。
概要

氏政は、後北条氏三代当主の北条氏康の次男として生まれた。当初は兄の北条氏親が嫡男として育てられていたが彼が夭折したため氏政が跡継ぎとなった。

永禄二年(1559年)に父氏康から家督を譲られると、以降約十二年間に渡って父との共同統治を行う。当主となった翌年に上杉謙信が関東に侵攻、居城の小田原城を攻められる。(小田原城の戦い)氏政は籠城でこれを撃退し、以後関東で上杉氏と抗争を繰り返す。

謙信の関東侵攻により北条氏は領土の多くを失い、危機に陥ったが氏康、氏政親子は永禄四年(1561年)の生野山の戦い、永禄七年(1564年)の第二次国府台合戦で立て続けに勝利し、関東の覇権を取り戻す。

永禄十一年(1568年)に武田信玄甲相駿三国同盟を破り駿河に侵攻すると、氏政は長年争っていた謙信と同盟を結び(越相同盟)、駿河に出兵して対抗した。北条軍は東駿河を確保するも翌永禄十二年(1569年)の三増峠の戦いで敗北したことにより、戦況は次第に劣勢となる。

元亀二年(1571年)に父氏康が死去すると氏政は方針を転換、武田氏と和睦して(甲相同盟)再び上杉氏と敵対する。氏政は天正二年(1574年)に北関東の要衝関宿城を攻略し、天正五年(1577年)には里見氏を破り上総国を攻略するなど勢力を拡大し、翌天正六年(1578年)に謙信が死去して上杉家で内戦が起こった際には弟の上杉景虎を支援して越後にまでその支配を広げようとする。

しかし、同盟する武田勝頼上杉景勝を支援して景虎が滅びると、氏政は武田氏と再度敵対する。


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