北条氏康
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 凡例北条 氏康
北条氏康像(小田原城天守閣所蔵模本品、原本は早雲寺所蔵)
時代戦国時代
生誕永正12年(1515年
死没元亀2年10月3日1571年10月21日
改名伊勢伊豆千代丸(幼名) → 北条氏康
別名通称:新九郎、号:太清軒
渾名:相模の獅子、相模の虎
戒名大聖寺殿東陽宗岱大居士
墓所神奈川県足柄下郡箱根町早雲寺
官位従五位上相模守左京大夫
氏族伊勢氏北条氏桓武平氏
父母父:北条氏綱
母:養珠院宗栄
兄弟氏康、為昌氏尭、大頂院殿、浄心院、高源院、芳春院、ちよ、蒔田殿(吉良頼康室)北条(福島)綱成(義弟)
妻正室:瑞渓院今川氏親の娘)、側室:遠山康光室の姉妹、松田殿(松田憲秀娘)
氏親氏政七曲殿氏照、尾崎殿、氏規、長林院殿、蔵春院殿氏邦上杉景虎浄光院殿桂林院殿、菊姫(里見義頼継室)
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北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代武将相模国戦国大名後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代当主。母は氏綱の正室の養珠院[1]。姓名は平氏康[2]

関東から山内扇谷上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏今川氏との間に甲相駿三国同盟を結んで関東を支配し、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した[3]。後北条氏当主として19年間、隠居後も後継者である第4代当主北条氏政との共同統治を12年間続け、30年以上にわたって後北条氏を率いた[4]
概要

北条氏康は相模国戦国大名後北条氏第二代当主・北条氏綱の嫡男として永正12年(1515年)に生まれた。享禄2年(1529年)に15歳で元服し、氏康と名乗る。

翌享禄3年(1530年)に扇谷上杉家当主の上杉朝興が北条領の小沢城に攻め込むと、これを奇襲して大勝し、上杉軍を壊滅させた(小沢原の戦い)。この戦いは氏康の初陣であり、関東諸侯に北条の世襲が盤石であると見せつけた。

氏康は天文4年(1535年)の山中の戦い、天文6年(1537年)の第一次河東一乱などで活躍し、父氏綱の躍進を支える。そして天文7年(1538年)の第一次国府台合戦で敵の大将・小弓公方足利義明を討ち取る大勝利を上げた。その後は氏綱から軍権を譲り受け、武蔵中央部を征服するなど勢力拡大を続けた。

しかし、この情勢は父氏綱の死により一変する。天文10年(1541年)に氏綱が死去すると扇谷上杉家の上杉朝定山内上杉家上杉憲政が同盟を結び、今川義元里見義堯を引き入れて北条包囲網を形成する。氏康は巧みにこれに対応するも、天文14年(1545年)には今川義元が北条領の河東に侵攻し(第二次河東一乱)、さらに北条氏唯一の味方であった古河公方足利晴氏が上杉に味方して北条軍の中武蔵における拠点河越城を包囲するなど、危機的な状況に陥る。義元に破れた氏康は今川軍と停戦し、一旦兵を引き揚げる。そして翌天文15年(1546年)に8万とも2万5千とも称される上杉、公方連合軍に夜襲を仕掛け、敵軍を壊滅させる大勝利を収めた(河越夜戦)。この戦いで氏康は扇谷上杉家を滅亡させ、山内上杉、古河公方にも壊滅的な被害を与えるなど、後の北条氏躍進のきっかけを作った。

その後は扇谷上杉家の残党を滅ぼしながら北上し、天文19年(1550年)までに武蔵国を併合した。天文21年(1552年)には上杉憲政の居城平井城を攻略して上野国にまで勢力を広げた(平井城の戦い)。天文23年(1554年)には古河城を攻略して足利晴氏を隠居させ、甥の足利義氏を擁立した。その過程で今川義元、武田信玄甲相駿三国同盟を結び、背後を固めた。弘治3年(1557年)から永禄元年(1558年)にかけて大規模な軍事遠征を行い、上杉憲政を関東から追いやって上野国を完全に併合した(上野侵攻)。北条氏の領土はかつてないほどまでに拡張され、最早関東において北条氏に対抗できる大名は存在しなかった。氏康は永禄2年(1559年)に嫡男氏政に家督を譲って隠居し、共同統治を行う。

しかし、永禄3年(1560年)に上杉謙信が関東侵攻を行うと状況は急変する。上杉軍は北条領を次々と攻略して、翌永禄4年(1561年)には居城の小田原城を包囲される。氏康は籠城にてこれに対抗し、上杉軍を撤退させた(小田原城の戦い)。これ以降約10年間、北条氏は上杉軍との戦争を続けていく。

謙信が帰国すると北条軍は即座に反撃を開始、生野山の戦いで上杉軍を破り、永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦で里見義堯、里見義弘に大勝利を収めると房総にもその支配を広げる。永禄9年(1566年)には厩橋城を攻略して再び関東の覇権を握った。この間に氏康は実権の氏政への譲渡を進め、隠居している。

永禄11年(1568年)に武田信玄が三国同盟を破り駿河に侵攻する(駿河侵攻)と、氏康は今川氏に援軍を派遣して武田の侵攻に抗戦した。このため関東に目を向けられなくなった氏康は謙信と越相同盟を結んだ。北条軍は駿河東部の河東を占領して武田軍と争ったが、翌永禄12年(1569年)の三増峠の戦いの敗北により駿河の戦線は劣勢となり、また越相同盟もあまり機能しないまま、元亀2年(1571年)に氏康は没した。

氏康の約30年間の治世により、北条氏は関東一の大名となり、後を継いだ氏政により、北条氏は最盛期を迎える。氏康は関東に覇を唱え、上杉謙信や武田信玄と互角に争った名将として評価されている。
生涯
家督相続まで
出生

後北条初代として扱われる伊勢宗瑞(北条早雲)が存命中の永正12年(1515年)、第2代当主・北条氏綱(当時は伊勢氏綱)の嫡男「伊勢伊豆千代丸」として生まれる[5]。氏康が生まれた当時は早雲が当主であり、相模の統一のため扇谷上杉氏とその傘下豪族である相模三浦氏と争っていた(相模平定戦)。3歳であった永正15年(1518年)2月8日、宗瑞から護符太刀および置文を授けられ、将来の後継者として位置づけられる[6]。4歳の時に祖父・宗瑞が死去。9歳の頃から父・氏綱は北条氏を名乗るようになる。ただし、当初「北条」の名乗りを用いたのは、氏綱のみであったらしく、大永5年(1525年)8月に飛鳥井雅綱から蹴鞠伝授書を授けられた際に「伊勢伊豆千代丸」充で贈られている[7]


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