河内国狭山藩の第2代藩主・北条氏信とは異なります。
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凡例北条氏勝
時代戦国時代 - 江戸時代前期
生誕永禄2年(1559年)
死没慶長16年3月24日(1611年5月6日)
戒名上嶽寺殿角翁良牛大居士
墓所神奈川県鎌倉市植木の龍寶寺
官位従五位下、左衛門大夫
幕府江戸幕府
主君北条氏政→氏直→徳川家康→秀忠
藩下総国岩富藩主
氏族玉縄北条氏
父母父:北条氏繁、母:七曲殿(北条氏康の娘)
兄弟氏舜、氏勝、氏成、千葉直胤、繁広、女(上杉氏憲室)
妻正室:蓮覚院
北条 氏勝(ほうじょう うじかつ)は、後北条氏の一族。江戸時代初期の大名。下総国岩富藩初代藩主。北条氏繁の次男。北条綱成の孫で、北条氏舜の弟に当たる。 発給文書による初見は天正10年(1582年)5月に出された「氏勝」と署名されたもので、この頃に兄・氏舜の死により家督を継承したとみられる。翌天正11年(1583年)の文書からは玉縄北条家代々の官途名である「左衛門大夫」を名乗っている。 天正10年、伊豆大平新城
経歴
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐が始まると伊豆山中城に籠もって戦ったが豊臣軍の猛攻の前に落城する。落城を前に氏勝は自害を図るが家臣の朝倉景澄に制止され、弟の直重・繁広の言に従って城を脱出、本拠である相模玉縄城へ戻り籠城する[注釈 1]。その後、玉縄城は家康に包囲されるが戦闘らしい戦闘は行われず、家康の家臣・松下三郎左衛門とその一族で氏勝の師事する玉縄城下の龍寶寺住職からの説得により、同年4月21日に降伏した。以後、氏勝は下総方面の豊臣勢の案内役を務めて北条方諸城の無血開城の説得に尽力した。秀吉も同日に出された在京の真木島昭光宛ての書簡で氏勝の降伏を許可した件に触れて、前将軍足利義昭に対して豊臣方が優勢であることの言伝を依頼している。
以後、家康に下総岩富1万石を与えられて家臣となり領内検地などの基盤整備を進める一方、関ヶ原の戦いなどで功績を重ね[注釈 2]徳川秀忠からの信頼も厚かった。慶長16年(1611年)死去、享年53。家督は養子の氏重が継いだ[注釈 3]。一説には弟の繁広を嫌った重臣・堀内氏が家康の外甥にあたる氏重を養子に迎えたとも伝わる(『寛政重修諸家譜』)。 この節には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2023年9月)
脚注
注釈^ 毛利家の文書によると、この玉縄城へ落ち延びた際の氏勝の手勢を「700騎」と記している。
^ 当初、岡崎城の守備。次いで石川貞清が退去した犬山城に入り、戦後は丹波亀山城の在番を務めた。
^ 氏勝の嫡子として氏明(通称は善九郎)が存在し、高野山にも同行して、文禄元年(1592年)に堀内勝光に知行を宛がう書状などを出していることなどから嗣子的立場にいたと推測されるが、前述の通り氏勝の跡は氏重が継いでおり、その対抗者として立てられていたのは養子に迎えられた氏勝の弟・繁広であることや、以降の氏明の動向も不明であることなどから、父より先に没した可能性が高い。
出典
参考文献
『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年、ISBN 4490106963
外山信司
表
話
編
歴
玉縄北条家第6代当主(1581年 - 1611年)
宗家
早雲(伊勢宗瑞/盛時)
氏綱
氏康
氏政
氏直 | 断絶