北条時頼
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 凡例北条 時頼
建長寺所蔵の北条時頼像(江戸時代
時代鎌倉時代中期
生誕嘉禄3年5月14日1227年6月29日[1]
死没弘長3年11月22日1263年12月24日
改名戒寿(幼名、戒寿丸[2]とも)、時頼、覚了房道崇
戒名最明寺道崇
墓所鎌倉市山ノ内の福源山明月院
伊豆の国市長岡の如意山最明寺
官位正五位下、相模守
幕府鎌倉幕府第5代執権
主君藤原頼経頼嗣宗尊親王
氏族北条氏得宗
父母父:北条時氏、母:安達景盛の娘(松下禅尼
兄弟経時、時頼、時定檜皮姫足利泰氏室、北条時定 (時房流)
妻正室:毛利季光の娘
継室:葛西殿北条重時の娘)
側室:讃岐局、辻殿
時輔時宗宗政宗時政頼宗頼時厳、娘
花押
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入道時頼の鉢木伝説。月岡芳年

北条 時頼(ほうじょう ときより)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権(在職:1246年 - 1256年)である。北条時氏の次男で、4代執権北条経時の弟。8代執権北条時宗らの父。通称は五郎、五郎兵衛尉、武衛、左近大夫将監、左親衛、相州、また出家後は最明寺殿、最明寺入道とも呼ばれた[1]
経歴
執権になるまで

幼くして父北条時氏と死別したため、祖父北条泰時に養育される[1]嘉禎3年(1237年)4月22日[1][2]、11歳にして元服征夷大将軍九条頼経偏諱(「頼」の1字)を賜り[2]、五郎時頼を名乗る[1]。同年、泰時の意向によって鶴岡八幡宮放生会で流鏑馬を担当[1]延応元年(1239年)には13歳で毛利季光の娘を正室に迎えている。幼い頃から聡明で、祖父泰時にもその才能を高く評価されていた。『吾妻鏡』には、仁治2年(1241年)11月、15歳の時、三浦一族小山一族が乱闘を起こし、兄北条経時は三浦氏を擁護したが、時頼はどちらに荷担することもなく静観し、経時は祖父泰時から行動の軽率さ、不公平を叱責され、逆に静観した時頼は思慮深さを称賛されて、泰時から褒美を貰ったというエピソードが収録されている[1]。しかし、『吾妻鏡』の成立年代から判断して、この逸話は時頼が経時の系譜から結果として執権を強奪してしまったことを正当化する為に作られた挿話の可能性があることが指摘されており[3][4]奥富敬之はこのエピソードを後世のでっち上げと断定している[4]。その一方で、高橋慎一朗はこのエピソードで時頼が経時と違って静観という態度をとったことに、次男と兄と言う間柄から、兄に遠慮して積極的な行動を取らない立場や性格が窺えると指摘している[4]。また、泰時から褒美として村を一つ拝領したことは史実だが、これも三浦と小山の諍いに対して適切な行動をしたことに対する褒美ではなく、日頃の恪勤に対する泰時のねぎらいからの褒美であった[4]

仁治3年(1242年)に泰時が死去すると経時が後を継ぎ執権となる。時頼は寛元元年(1243年)に左近将監、寛元2年(1244年)に従五位上と昇進。この頃から経時が病気となり、重篤になってゆく。寛元3年(1245年)、時頼は鶴岡八幡宮の大鳥居の検分を行っている[5]。病状芳しくない経時の代理として、時頼が本来執権が担当するべき大事な仕事を代行したと考えられる[5]。寛元4年(1246年)になると経時の病状はさらに悪化し、その結果、一門、重臣達による、「神秘の御沙汰」と呼ばれる秘密会議が行われ、時頼は兄経時から執権職を譲られる[6]。なお、奥富敬之は、時頼が重篤の経時を無理矢理引退に追い込んで権力を掌握したと推論しているが、高橋慎一朗は、当時の時頼にそこまでの政治力はなく、自分に執権の座が回ってくるように手配できたかは疑わしいと懐疑的な見解を述べている[7]。経時には二人息子がいたが、執権は時頼に譲られることとなった。高橋慎一朗は、まだ息子二人が幼いことを憂慮した経時が、自分の意向で弟時頼へ執権を譲ったと推測している[8]。その後経時は出家し、程なく病死した。
執権時代

執権へ就任した時頼だが、この当時、幕府の政治の中枢にある評定衆のメンバーの大半が、庶流から後を継いだ時頼を支持していなかった[9]。それから1ヵ月後、前将軍頼経を始めとする反北条勢力が勢い付き、寛元4年(1246年)5月には頼経の側近で北条氏の一族であった名越光時(父時氏の従兄弟)が頼経を擁してを準備するという非常事態が発生したが、これを時頼は鎮圧するとともに反得宗勢力を一掃し、7月には頼経を京都に強制送還した(宮騒動)。これによって執権としての地位を磐石なものとしたのである。

翌年、宝治元年(1247年)には外戚の安達氏と協力して、有力御家人であった三浦泰村一族を鎌倉に滅ぼした(宝治合戦)。続いて千葉秀胤に対しても追討の幕命を下し、上総国で滅ぼした。これにより、幕府内において反北条氏傾向の御家人は排除され、北条氏得宗独裁政治が強まる事になった。一方で祖父泰時の異母弟で六波羅探題北条重時を空位になっていた連署に迎え、三浦方に付いた季光の娘を離縁して重時の娘葛西殿と結婚。時宗宗政を儲けている。

建長4年(1252年)には第5代将軍藤原頼嗣を京都に追放して、新たな将軍として後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立した。これが、親王将軍の始まりである。

しかし時頼は、独裁色が強くなるあまりに御家人から不満が現れるのを恐れて、建長元年(1249年)には評定衆の下に引付衆を設置して訴訟や政治の公正や迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を半年から3か月に短縮したりするなどの融和政策も採用している。


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