北条時宗
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この項目では、鎌倉幕府の執権について説明しています。本項の人物が主人公の大河ドラマについては「北条時宗_(NHK大河ドラマ)」をご覧ください。

北条宗時」あるいは「北条宗時 (遠江守)」とは別人です。

 凡例北条 時宗
満願寺所蔵の伝北条時宗像(北条定宗像の説が有力[要出典])
時代鎌倉時代中期
生誕建長3年5月15日1251年6月5日
死没弘安7年4月4日1284年4月20日[1]
享年34(満32歳没)
改名正寿(幼名)→時宗
別名相模太郎(仮名)
戒名宝光寺殿道杲
墓所神奈川県鎌倉市円覚寺塔頭佛日庵
官位左馬権頭相模守正五位下、贈従一位
幕府鎌倉幕府連署、第8代執権
主君宗尊親王惟康親王
氏族北条氏得宗
父母父:北条時頼
母:葛西殿北条重時の娘)
兄弟時輔、時宗、宗政宗時、政頼、宗頼桜田時厳、女子(早世)
妻正室:堀内殿安達義景の娘)
貞時
花押
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北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の鎌倉幕府第8代執権(在職1268年-1284年)。5代執権北条時頼の次男(嫡男)。鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻(元寇)を退けた。官位は、正五位下相模守従一位
生涯
出生から執権就任まで

建長3年(1251年5月15日相模国鎌倉安達氏の甘縄邸に生まれる。長兄に宝寿丸(のちの北条時輔)がいたが彼は側室の子(庶子)であったため、正寿が後継者に指名された。

康元2年(1257年[2]、まだ7歳という年齢でありながら、将軍御所にて征夷大将軍宗尊親王加冠により[3]元服し、親王より偏諱(「宗」の1字)を賜り[2][注釈 1]、相模太郎時宗と名乗る。この時、後に義兄となる安達泰盛烏帽子を運ぶ役目を務めたという[4][注釈 2]。元服には北条氏一門や得宗被官、公家などが列席し、盛大な儀式が催された。庶兄である時輔とは元服の規模に大きな違いがあり、時宗が名実共に北条の次期棟梁であることが周知された。正嘉元年6月23日には、宗尊親王が納涼の為に時宗の住む山ノ内の泉亭に来訪している。

文応元年(1260年)、将軍の供奉などを務める小侍所の別当に就任する。当時すでに北条実時が別当の任にあり、また小侍所はそれまで別当を複数置く官職ではなかったが、時宗の就任以降は別当を複数任命することが慣行となる。これは、すでに実時が別当になっているところへ、さらに時宗が別当に就任したことを正当化するための慣例化だという[5]。この時宗の小侍所入りは、将来の彼が執権になるための経験を積ませるための時頼の配慮だった。ともに小侍所の別当であった実時は深慮に富んだ教養深い人物で、時宗は彼から指導を受けて人格を陶冶したと考えられる[6]

弘長元年(1261年)4月に安達義景の娘(安達泰盛の異母妹)の堀内殿と結婚。極楽寺での武芸大会で宗尊親王から褒め称えられた逸話もある。

弘長3年(1263年)11月、父時頼が死去し13歳で得宗の地位を継ぐ。文永元年(1264年)7月、6代執権の北条長時が出家し、北条政村が7代執権となり、長時は翌8月に死去。同月に時宗は14歳で執権の補佐を務める連署に就任する。執権政村や一族の重鎮北条実時と協力して、文永3年(1266年)に宗尊親王の将軍廃位と京都送還、宗尊の子惟康王[注釈 3]の将軍擁立などを行った。

クビライ・ハンがモンゴル皇帝に即位した8年後の文永5年(1268年)正月、高麗の使節がの国書を持って大宰府を来訪、蒙古への服属を求める内容の国書が鎌倉へ送られる。3月5日には政村から執権職を継承し、時宗は18歳で第8代執権となる。
元寇前夜

時宗は前執権の政村や義兄の安達泰盛、北条実時・平頼綱らに補佐され、モンゴルの国書に対する返牒など対外問題を協議し、大田文の作成、御家人の所領譲渡制限、異国警固体制の強化や、異国調伏の祈祷などを行わせる。モンゴルからの度々の国書には一切返事を与えず、また朝廷が作成した返牒案も採用しなかった。一方でモンゴルに滅ぼされた高麗の残党にあたる三別抄からの援助要請も黙殺した。文永8年(1271年)、モンゴルの使節が再来日して武力侵攻を警告すると、少弐氏をはじめとする西国御家人に戦争の準備を整えさせ、異国警固番役を設置している。

得宗家の権力を磐石なものとするため、文永9年(1272年)には評定衆である名越家北条時章教時兄弟や、六波羅探題南方別当(長官)である異母兄の時輔を誅殺している。だが間もなく時章に異心はなく誤殺であったとされ、討手である御内人5人は責任を問われて斬首。時章の子公時は所領安堵され、教時への討手には罰も賞もなしという結果となった(二月騒動)。文永11年(1274年)、『立正安国論』を幕府に上呈した日蓮を佐渡に配流するなど、モンゴルや朝鮮に対してだけでなく、国内の世論や一門に対しても苛烈に臨んだ。
文永の役への対応

文永11年(1274年)、元軍が日本に襲来した(文永の役)。いわゆる元寇である。激戦の末に元軍の内陸部への進撃を阻止した。翌年、降伏を勧める使節・杜世忠らが来日すると、鎌倉で引見し、連署北条義政の反対を押し切って処刑する。建治3年(1277年)に義政は程なく連署を辞して出家するが、弘安6年(1283年)に北条業時が連署に就任するまで連署は空席となった。弘安2年(1279年)に来日した周福ら使節団も、大宰府で処刑させた。これらの処刑には元への示威行動の意図もあった。時宗はじめ幕府の首脳陣は自ら高麗出兵を一時は命じたが、軍事費などを勘案した末に結局は中止となった。代わりに異国警固番役を拡充し、長門探題及び長門警固番役を新たに設置し、文永の役を教訓として博多湾岸に現代も残る石塁を構築するなどして国防強化に専念した。特に石塁や警固番役には、御家人のみならず寺社本所領などの非御家人にも兵や兵糧の調達を実施したため、鎌倉幕府の西国における実質的な支配権が拡大した。


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