北条早雲
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 凡例北条 早雲 / 伊勢 宗瑞
伊勢宗瑞像(小田原城所蔵)
時代室町時代戦国時代
生誕永享4年(1432年)、または康正2年(1456年)?
死没永正16年8月15日1519年9月8日
改名伊勢盛時 → 早雲庵宗瑞(
別名通称:新九郎、または八郎
:長氏、氏茂、氏盛、長茂、貞藤、貞辰[注釈 1]
戒名早雲寺殿天岳宗瑞公大禅定門
墓所金剛峯寺和歌山県伊都郡高野町
早雲寺神奈川県足柄下郡箱根町
法泉寺岡山県井原市
官位左京大夫説あり
幕府室町幕府申次衆奉公衆
主君足利義政義尚義材義澄
足利政知今川氏親
氏族伊勢氏後北条氏
父母父:伊勢盛定
母:伊勢貞国
養父:北条行長、伊勢貞通[注釈 2]
兄弟貞興[注釈 3]北川殿今川義忠室)、宗瑞(盛時)、弥二郎
妻正室:南陽院殿(小笠原政清女)
側室:葛山氏、善修寺殿
氏綱氏時葛山氏広長綱、長松院殿(三浦氏員室)、高橋高種
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北条 早雲 / 伊勢 宗瑞/伊勢新九郎盛時(ほうじょう そううん / いせ そうずい/いせしんくろうもりとき)は、室町時代中後期(戦国時代初期)の武将戦国大名となった後北条氏の祖・初代である。「北条早雲」の名で広く知られているが、実際は存命中には「伊勢」の姓を名乗っていた。
名前

伊勢氏の一族であり、は、早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)。伊勢から姓名を変えて北条を称したのは早雲の死後、嫡男氏綱の代になってからである。後世では、一般に「北条早雲」の名で知られるが、本人自ら北条早雲と名乗ったことはなく、生前の署名も「伊勢宗瑞」や「伊勢新九郎」などであった。

後述の新九郎という名であることは古くから判明していたものの、は長らく不確定で、長氏(ながうじ)を筆頭に、氏茂(うじしげ)・氏盛(うじもり)などとも伝えられてきたが、現在では盛時(もりとき)が定説となっている[2]。盛時が定説となる以前は長氏が最有力であったため、その頃(概ね1990年代まで)に作られた小田原など各地の北条早雲の像や碑などの文では「伊勢新九郎長氏」といった名で書かれているものが残っている。

通称は、新九郎(しんくろう)。『尊卑分脈』では「八郎盛時」と書かれており、「伊勢家書」には文明10年(1479年)2月28日に足利義尚の御供をした人物として「伊勢八郎盛時」があるため、本来の仮名は八郎(はちろう)であったとも考えられている[3]
生涯
出自出身地の可能性のひとつとされる備中国荏原荘(岡山県井原市「北条早雲生誕の地」碑(岡山県井原市神代町の高越城址)

一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が近代になって風聞され、通説とされてきた[4]。しかし、近年の研究では室町幕府政所執事を務めた伊勢氏を出自とする考えが主流である[5]1950年代に発表された藤井論文以降の資料検証に基づく研究で、伊勢氏のうちで備中国を所領とした支流であり、備中荏原荘(現井原市)または京都[6]で生まれ、荏原荘の半分を領する領主(300貫といわれる[7])であったことがほぼ確定した[8]

幕府申次衆の書状と駿河国関連の書状を照らし合わせたところ、記載された史料の「伊勢新九郎盛時」なる人物が同一であることも決め手となった[9]。従来の説は文献の解釈の違いによるところが大きく、さらに「備中伊勢氏」説は史料が最も豊富で多岐にわたることも出自解明に寄与した[9]

近年の研究で伊勢盛定が父、京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘が母であり、父の盛定は幕府政所執事・伊勢貞親の妹婿で8代将軍・足利義政申次衆として重要な位置にいたことも明らかになってきている[10]。貞親失脚後に跡を継いで政所執事となった伊勢貞宗とは従兄弟にあたる。

盛時は若い頃、盛定の所領である備中荏原荘に居住したと考えられている[11]。荏原荘には文明3年(1471年)付けの「平盛時」[注釈 4]の署名の禁制が残されている[12](ただし、花押が後のものとは異なる[13])。井原市神代町の高越城址には「北条早雲生誕の地」碑が建てられている[14]。備中荏原荘からは内藤氏、笠原氏、平井氏、山中氏、井上氏など後北条氏の家臣が出ている[15]

応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河国守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を盛定が務めていた[10]。その縁で盛定の娘で宗瑞の姉妹にあたる北川殿が義忠と結婚したと考えられる[16]


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