北条政子
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ほうじょう まさこ/たいらのまさこ
北条政子/平政子
北条政子木像(安養院所蔵)
生誕保元2年(1157年
死没嘉禄元年7月11日1225年8月16日))
国籍日本
配偶者源頼朝
子供頼家実朝大姫三幡
親父・北条時政
母・伊東祐親の娘
親戚北条義時(同母弟)、阿波局(妹)、稲毛女房(異母妹)
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北条 政子(ほうじょう まさこ、平政子[1](たいらの まさこ)、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性鎌倉幕府を開いた源頼朝御台所。子は頼家実朝大姫三幡。周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となった。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名は安養院(あんにょういん)[2]

頼朝亡きあと征夷大将軍となった頼家、実朝が相次いで暗殺された後は、鎌倉殿として京から招いた幼い三寅(後の藤原頼経)の後見となって幕府の実権を握り、世に尼将軍(あましょうぐん)と称された。
生涯.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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出典検索?: "北条政子" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年1月)

頼朝との婚姻

伊豆国豪族北条時政の長女。母は未詳だが、北条時子の同母姉妹とみられている。坂井孝一は、真名本『曾我物語』巻五に「鎌倉殿の御台盤所」(政子)の母が曾我兄弟の「父方の伯母」と書かれていることから、政子の母も義時を生んだ伊東祐親の娘としている[3]。また、時政の正室とされる牧の方も7人の子女を産んだとされており、彼女よりも前に娶った伊東祐親の娘が時房以前の8人の子女を生んだ可能性があるとしている[4][注 1]。ただし真名本『曾我物語』巻二では伊東祐親の娘は4人と書かれており、その嫁ぎ先には北条時政は含まれていない。また吉川本『吾妻鏡嘉禄元年(1225年)7月11日条には政子は「前大将軍後室、二代将軍母儀也」と書かれており、当時は源頼朝の後室と認識されていた可能性があるので、真名本『曾我物語』巻五に書かれた「鎌倉殿の御台盤所」は政子のことではない可能性がある。また、保立道久はこの「父方の伯母」を曾我兄弟の父である河津祐泰(祐通)の伯母を指すと解釈して、伊東祐親の姉妹が北条時政に嫁いで政子や義時を生んだとしている[6]二人はこの石に腰掛けて結ばれたとされる。頼朝・政子腰掛石(伊豆山神社

伊豆の在庁官人であった時政は、平治の乱で敗れ同地に流されていた頼朝の監視役であったが、時政が大番役のため在京中の間に政子は頼朝と恋仲になってしまう。頼朝との婚姻は治承元年(1177年)の頃と推定される[注 2]。『吾妻鏡』によると時政はこの婚姻には大反対であったという。同書にはこの時のことについて、後年、源義経の愛妾の静御前が頼朝の怒りを受けたときに、頼朝を宥めるべく政子が語った言葉で「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」と述べたと記されている[要出典]。しかし最終的に時政は2人の婚姻を認めた。政子は、まもなく長女・大姫を出産する。北条氏は頼朝の重要な後援者となる。

なお、軍記物にはこの婚姻についての逸話がいくつか書かれている。『曽我物語』によると二人の馴れ初めとして、政子の妹(後に頼朝の弟・阿野全成の妻となる阿波局)が日月を掌につかむ奇妙な夢を見た。妹がその夢について話すと、政子はそれは禍をもたらす夢であるので、自分に売るように勧めた。当時、不吉な夢を売ると禍が転嫁するという考え方があった。妹は夢を売り、政子は代わりに小袖を与えた。吉夢と知って「夢買い」をしたのである。また『源平盛衰記』には次の内容の記載がある。頼朝と政子の関係を知った時政は平家一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代山木兼隆と結婚させようとした。山木兼隆は元は流人だったが、平家の一族であり、平家政権の成立とともに目代となり伊豆での平家の代官となっていた。政子は輿入れさせられようとするが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったという。二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。政子21歳のときである。伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったという。しかしながら山木兼隆の伊豆配流は治承3年(1179年)の事であり、政子との婚姻話は物語上の創作とみるのが妥当と思われる。

治承4年(1180年)、以仁王源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけた。伊豆の頼朝にも以仁王の令旨が届けられたが、慎重な頼朝は即座には応じなかった。しかし計画が露見して以仁王が敗死したため、頼朝にも危機が迫り挙兵せざるを得なくなった。頼朝は目代・山木兼隆の邸を襲撃して討ち取るが、続く石橋山の戦いで惨敗、政子の長兄宗時が討死。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送る。

頼朝は北条時政、義時とともに安房国に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。政子も鎌倉に移り住んだ。頼朝は富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧した。頼朝は東国の主となり鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになった。
御台所

養和2年(1182年)初めに政子は二人目の子を懐妊した。頼朝は三浦義澄の願いにより政子の安産祈願として、平家方の豪族で鎌倉方に捕らえられていた伊東祐親(時政の舅で義時の母方の祖父)の恩赦を命じた。祐親はこの赦免を恥として自害してしまう。『源平闘諍録』『曽我物語』などによると、頼朝は政子と結ばれる以前に祐親の三女(八重姫)と恋仲になり男子までなしたが平氏の怒りを恐れた祐親はこの子を殺し、頼朝と三女の仲を裂き他の武士と強引に結婚させてしまったという。ただし同時代史料や『吾妻鏡』など後世の編纂史料では確認できない。同年8月に政子は男子(万寿)を出産。後の2代将軍・源頼家である。

政子の妊娠中に頼朝は亀の前というを寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになった。


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