この項目では、北条宗頼の子について説明しています。北条有時の子については「北条兼時 (伊具流)」をご覧ください。
凡例北条兼時
絵本鎌倉北条九代記
時代鎌倉時代後期
生誕文永元年(1264年)
死没永仁3年9月18日(1295年10月27日)
官位修理亮、従五位下、越後守、長門守護
幕府鎌倉幕府 六波羅探題南方・北方、
鎮西探題 評定衆
主君惟康親王、久明親王
氏族北条氏
父母父:北条宗頼
兄弟兼時、宗方
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北条 兼時(ほうじょう かねとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。父は第8代執権・北条時宗の異母弟である北条宗頼。 弘安3年(1280年)、長門探題であった父の死に伴い長門国守護となる。翌年には異国警固番役を任じられて播磨国に赴いた。弘安の役から3年後の弘安7年(1284年)、摂津国守護と六波羅探題南方に任じられた。 正応6年(1293年)1月、探題職を辞して鎌倉に帰還したが、前年の外交使節到来で再び蒙古襲来の危機が高まったため、同年3月、執権北条貞時の命を受け、軍勢を引き連れて九州に下向した。兼時の九州下向をもって初代鎮西探題とする見方もある。兼時が九州博多に到着した直後に鎌倉では平禅門の乱が起こり、5月3日に事件を報ずる早馬が博多に到着し、九州の御家人達が博多につめかけ、兼時はその対応に追われた。 翌永仁2年(1294年)3月、兼時は「異国用心」のため、筑前国と肥前国で九州の御家人達と、とぶひ(狼煙)の訓練を行い、軍勢の注進、兵船の調達などを行って異国警固体制を強化した。しかし予想していた元軍の襲来はなく、兼時は永仁3年(1295年)4月23日、鎮西探題職を辞して再び鎌倉に帰還した。翌年には北条実政が鎮西探題に派遣された。兼時は評定衆の一人に列せられて幕政に参与したが、鎌倉帰還の5ヶ月後、9月18日に死去した。享年32。 ※日付=旧暦
生涯
経歴
年月日不詳、修理亮に任官。
1284年(弘安7)11月3日、幕府の六波羅探題南方として赴任。
1287年(弘安10)3月12日、3月12日、従五位下に叙し、越後守に遷任。8月、六波羅探題北方に異動。
1293年(正応6)3月7日、鎮西探題に異動。
1295年(永仁3)4月23日、鎮西探題退任。5月11日、評定衆と就る。9月18日、死去。享年32。
偏諱を与えた人物
遠藤兼俊[1]
脚注^ 『続群書類従』所収「遠藤系図」の兼俊の注記に「六波羅北方越後守兼時烏帽子子也。」とあり、弟の長綱
関連項目
鎮西探題
表
話
編