『北条五代記』(ほうじょうごだいき)は、三浦浄心が著した、後北条氏にまつわる話題を中心とした仮名草子・軍記物語。確認されている最古の版本は寛永18年(1641年)刊。万治2年(1659年)版が流布本で残存数も多い。ともに全10巻だが内容には改変がある。
『北条記』と取り上げている話題が似ており、同書を参照して書かれたと推定されている[1]。江西逸志子『北条盛衰記』(改題本『北条五代実記』、現代語訳『小田原北条記』)[2]は『北条記』と『北条五代記』を参照して書かれた別作品である[1]。 著者名は明記されていないが、寛永版の作中に「出口五郎左衛門尉茂正」「三浦屋浄心」の名前に言及があり[3]、また跋にあたる巻10「老て小童を友とする事」に「浄き心にあらざれば」という名前の分かち書きがあって[4]、三浦浄心の著書である。後北条氏の旧臣で小田原籠城を体験したなど、経歴の紹介もある[5]。 編集の経緯について、序に、「翁」が著した『見聞集』から、後北条氏に関わる記事を旧友が抄録したと記されているが、これは擬態で全編が浄心の自著と考えられている(『見聞集』からの抜粋は、浄心の著書の刊本に共通する擬態)[6]。 なお、万治版では、著者名が記されていた条項が削除されており、巻4「北条氏政東西南北と戦の事」にある「それがし親。三浦五郎左衛門尉茂信。相州三浦の住人。北条家譜代の侍なり」という記述のみが残されていたため、著者名を「三浦茂信」と記している文献が多いが[7]、寛永版には、もとの名は「出口五郎左衛門尉茂正」で、江戸へ上ってから「三浦五郎左衛門」と呼ばれるようになった、とある[8] [9]。 これも浄心の各作品に共通して、作中に、今は慶長19年(1614年)、と記されているが、元和・寛永年間の事実への言及も多いことが知られており、『見聞集』に永禄8年(1565年)生まれの浄心が70余歳と記されていることや[10]、「三十余年、弓矢治て。当代の若き衆。しるべからず」(関ヶ原の戦いは1600年、大坂夏の陣は1614年)[11]のような言及から、実際の成立時期は寛永版刊行(寛永18年・1641年)の少し前の寛永後期とみられている[6]。 大澤学 万治版は、寛永版をもとに浄心の死後に刊行された別版である[16]。 寛永版は74条からなるが、万治版は絵入りで寛永版よりも話題が17項少ない。
著者
成立時期
参照関係』(寛永8年刊本に近い本)からの引用[15]など、出典のある記述が多く含まれていることが知られている。また先行して刊行されていた『甲陽軍鑑』を意識し、参照して書かれている[16][17]。著者自身の体験談は北条五代の中でも氏政から氏直の時代(浄心自身の説明では氏康以降)と後北条氏滅亡後の、一部の話題に限局される。
諸本